盲目の恋
恋をした。
初めての気持ちだった。
本当の、本物の恋だった。
今までに好きになった子はいたけど、それまでとは違った。
あの女性を見ると、胸はドキドキするし、高揚感と不安が入り混じった、不思議な感覚に、僕はおぼれた。
あの女性のことを、いつまでも、いつまでも見ていたいけど、何故か逃げ出したくなる。
恥ずかしくて、恥ずかしくて。
まるで、心を見透かされているようで、怖かった。
「こんにちは」
突然、話しかけられた。
いや、違う。
僕が見つめていたからだ。
「は、はい、こんいひあ」
噛んだ!
でも、あの女性は、微笑んでくれた。
すごく、素敵な笑顔だった。
同級生の女どもと違った、大人の笑顔だった。
僕はいつまでもいつまでも、その笑顔を見ていたいと思った。
それだけで、幸せだった。
幸せだった。
「お~い!」
男の声がした。
「あ!行かなくっちゃあ。またね♪」
「あ、はい。さようなら」
「はい、さようなら」
白のワンピースの裾を翻しながら、弾むような早足で、僕から離れていく。
あの女性は、涼やかな空気と共に、素敵な大人の女性の匂いをこの場に残して、去って行った。
あの女性のヒールの音が残響となって、僕の耳にいつまでもこだました。
音までも、僕を刺激する。
女性の仕草、女性の匂い、女性の空気、女性の音。
何もかもが、女性だった。
本当の女性だった。
僕は立ち尽くしてしまった。
気が付くと、誰も居なかった。
僕を置いて、あの女性は去って行った。
僕だけが、この場に残されて。
たったひとりで。
気持ちが混乱した。
追いかけたい。
抱きしめたい。
そんな気持ちが、恥ずかしかった。
僕は恥ずかしさともどかしさと、僕よりも男を優先したあの女性に対して、どこか怒っていた。
好きなのに。
愛しているのに。
許せなかった。
僕の気持ちを、分かっているはずなのに。
微笑んでいたあの目は、どこか嘲笑しているような気がした。
僕を弄んでいるような、そんな気さえする。
違う。
僕のような子供なんか、相手にしないんだ。
だって、あの女性は大人の女性で、人妻だから。
結婚しているんだ。
だから男が呼ぶと、あの女性は嬉しそうにしながら、僕を置き去りにして戻って行く。
その笑顔は、本物の笑顔だった。
違う!!!!!
あの女性は、騙されているんだ!
だって、時々顔を腫らしていたから。
泣いていたから。
「なんでもないのよ」
あの女性はそう言う。
泣きながら、腫れた頬を撫でていると、僕は自然にあの女性の頬に触れていた。
無意識に。
「あ!ご、ごめんなさい!」
あの女性は、頬に触れている手の上に手を重ねてきた。
あの女性の手が僕の手に重なるまで、僕はそのことに気が付かなかった。
少し微笑みながら、僕の手を握った。
あの女性の頬は、とっても熱かった。
あの女性の手は、とても冷たかった。
あの女性は、泣いていた。
僕は、決意した。
その日、包丁を用意した。
本当なら、サバイバルナイフなんかを用意したかったけど、手に入らなかった。
そしてある日、とうとうその日が来た。
あの女性と男が歩いていた。
僕は後ろから、そっと近づいた。
でも、あの女性は気が付いた。
そして、僕の手に持っている武器を見て、少し微笑んだ。
微笑んだんだ。
僕は咄嗟に、走り出した。
ぶつかった。
悲鳴があがった。
あの女性の悲鳴だった。
「こ、この子が、この子が!!!」
震えながらあの女性は、僕を指差した。
どうしたんだろうか?
あの女性は、青ざめた顔をしている。
震えていた。
気が付くと僕は取り押さえられ、武器を取り上げられた。
「ち、ちがう!」
あの女性は、男の身体にすがりついて泣いていた。
泣いていたんだ。
「何で?何で?」
あの女性は、今まで見たことも無い表情で、僕を指差し、そして怒っていた。
だけど、僕は見ていた。
見えてしまった。
一瞬だけど、あの女性が笑っていたのを。
そう、笑っていたんだ。
僕はあの女性の、笑う顔が好きだった。
でも、その笑顔は、好きにではなかった。
まるで、別の人の顔だったから。