01-01 幼なじみが職場にいるとやりにくい。
小さなシステム会社に就職して三年。
ずっと社内で作業していた千秋も、ついに一人で客先に出ることになった。
と、言ってもエンドユーザーじゃなくて、大手メーカーのシステム開発事業を担当している子会社に派遣されるというだけのことなのだけど。
それでも、自社の先輩たちを頼ってずっと仕事をしてきたのだ。社外に、それも一人で常駐するというだけでかなり緊張する。
入社式以来、着ていなかったスーツに身を包んだ千秋は、
「大きい……」
目の前の二十階建てだか三十階建てだかの高層ビルを見上げて、ため息をついた。このビル全体がくだんの子会社――QBシステムズの持ちビルなのだ。
「ここも持ちビルのうちの一つ、なんだもんなぁ」
千秋はハハ、と乾いた笑い声を漏らした。
七階建てのビルの、ワンフロアを借りるだけで事足りてる自社とはずいぶんな差だ。
ビルの一階はだだっ広いエントランスになっていて、中央には応接用のテーブルとイスのセットが八つほど並んでいた。打ち合わせをしている人、誰かを待っているようすの人がぽつりぽつりと座っている。
誰かを待っている人のうちの一人が、千秋に気が付いて軽く手をあげた。
岡本だ。
QBシステムズの課長で、千秋が入るプロジェクトのマネージャーでもある。
応接用のテーブルにはモバイルパソコンと空になったコーヒーカップが置かれていた。そこそこ長居していたようすの岡本を見て、千秋はサーっと青ざめた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか!?」
千秋が駆け寄ると、岡本は首を横に振った。
「大丈夫、時間通りだよ。ここでお客さんと打ち合わせだったんだけど、予定よりも早く終わってね。フロアに戻るとすぐ人に捕まっちゃって作業が進まないし、ちょうどよかったよ」
モバイルパソコンを閉じて、岡本はスッと立ち上がった。モデルみたいにすらりと背が高い。パリッとした細身のスーツがよく似合っている。
岡本は受付カウンターの女性に軽く手をあげて微笑んだ。女性ははにかんだ笑顔で頷くと、トレーを手に受付カウンターから出てきた。
応接用テーブルの片付けは彼女たちがやってくれるらしい。
目尻にしわを寄せて微笑む岡本を見上げ、千秋はほーっと息をついた。
整った顔立ちをしているけれど、人の良さそうな微笑みのおかげで怖いとか近寄りがたいと言った印象は全くなかった。立ち居振る舞いも洗練されていて、いかにも仕事ができる男という感じだ。
耳際の髪に白が混じっていたり、目元にしわがあったりと四十代らしく年相応に老けている。でも、こういう風に年を取りたいと、同じ男でも憧れてしまうような。そんな人だった。
ふと横を見ると、窓ガラスに千秋自身の姿が映っていた。
細くて真っ直ぐな黒髪をくしでとかしただけの野暮ったい姿。スーツも馴染んでなくて、就活中の学生みたいだ。
もう一度、岡本を見上げて、
――こういう大人の男になるためにも、今日からしっかりやらないと!
千秋はよし! と、拳を握りしめて気合を入れた。
「じゃあ、早速行こうか」
「はい!」
岡本から入館証を受け取って、あとを追いかけようとして、
「……っ」
セキュリティゲートのバーに思い切り腹を殴打してうずくまった。
「あ、小泉くん。ゲートの脇の光ってるところに、入館証をかざすと開くから……だ、大丈夫?」
「大丈夫……で、す。……すみません」
心配そうな岡本の声に千秋はこくこくと頷いた。
かっこいい大人の男への道のりは、遠い。
***
岡本に案内されて千秋がやってきたのは、ビルの六階北側のフロアだった。
だだっ広いフロアには、オフィス用のデスクとイスが、島型レイアウトでズラッと並んでいた。自社で使っているような安っぽいやつじゃなく、ちょっとおしゃれなやつだ。
このフロアだけで二百人ほどの席があるようだ。社内に三十人ほどしかいなかった自社との差に、千秋はまたため息をついた。
――自社は作業場、ここはオフィスって雰囲気だよなぁ。
岡本の話によると六階北側と南側、七階北側のフロアにいる人間全員がプロジェクト全体のメンバーになるらしい。
その中で発注システム、工程管理システム……といった感じで担当する業務ごとに十グループほどに分かれていて。さらにその中で画面、業務処理、共通処理の三チームに分かれているんだそうだ。
岡本はプロジェクト全体を束ねるプロジェクトマネージャー兼、基幹業務――今回のプロジェクトの肝となるシステムのチームリーダーも担っている。
千秋が入るのも、岡本配下の業務処理チームだ。
「みんな、ちょっといいかな」
岡本が声をかけると、三島分の席の人たちがキーボードを叩く手を止めた。約三十人の視線が岡本と、その隣に立っている千秋に集中した。
千秋はごくりと息を飲んだ。
自社の先輩たちはまさに技術職といった感じで、お世辞にも愛想がいいとは言えない人ばかりだった。
時計を見ると十時ちょっと過ぎ。ここは九時始業だから、業務が始まって一時間ほどが経っている。ちょうど作業がノリ始めて来た頃のはずだ。
こんなタイミングで自社の先輩たちに話しかけたら、間違いなく睨まれる。
冷ややかな視線を覚悟して身体を強張らせていたのだが、
「今日からこのチームに入ることになった小泉 千秋くん。最初はわからないことばかりだろうから、みんな、いろいろと教えてあげるんだよ」
三十人ほどのチームメンバーは、温かい拍手を送ってくれた。拍手の音を押さえているのは、周囲のチームへの配慮だろう。
「チームメンバーの紹介は今日の歓迎会でゆっくりするとして――まずは小泉くん、一言」
ポン、と岡本に肩を叩かれて、千秋は思わず一歩前に出てしまった。慌てて岡本を見上げると優しい目でうながされた。
――きちんとした社会人なら、きちんと、そしてさらっとあいさつぐらいしなきゃだ。
千秋はこくりとうなずいて、背筋を伸ばした。
「今日からお世話になります、小泉 千秋です」
チームメンバーの顔を端からゆっくりと見回した。
あがり症で人前で話すのが苦手なのは、幼稚園の頃からだ。入園式、入学式の日には必ず吐きそうになってた。
でも――。
下、向くなって。みんなの顔見て、話せよ。
最初が肝心なんて言うけど、緊張で声が上擦ってたとか、言い間違えてたとか。どうせ、あとになったら誰も覚えてないんだから。
とりあえず、それっぽい顔して、テキトーなこと言っときゃいいんだよ。
中学の入学式の日。ガチガチに緊張している千秋のほほを勢いよく叩いて、ニカリと笑った幼なじみの顔を思い出した。
ムッとした気持ちと、ほほの痛さと。それから、肩の力が抜けていく感覚もセットで。
「わからないことばかりで、いろいろとご迷惑をおかけするかと思います。早く覚えられるようがんばりますので、よろしくお願いいたします」
千秋は頭を下げたタイミングで、くすりと笑った。幼なじみの能天気な笑顔を思い出したおかげで、ちょっと緊張が解けた。
顔をあげ、チームメンバーの温かい拍手にもう一度、頭を下げて。
一歩下がろうとした千秋は、視界の端で動き回る何かに気が付いて、そちらに目を向けて――固まった。
チームメンバーの一番後ろに、日本の大企業のオフィスだとなかなか見かけない、明るい茶髪のスーツ姿の男が立っていた。
いや、飛び跳ねていた。
チャラそうな顔つきの若い男は、人懐っこい笑顔を浮かべ。ここを体育館かグラウンドと勘違いしてるんじゃないかっていう勢いで、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
ついでに、全力で両腕も振っていた。
「…………」
弾けるポップコーンのように飛び跳ねる男に、千秋の顔からすーっと表情が消えた。
たぶん千秋の名前を呼んでいるのだろう。
エサをねだる鯉のようにパクパクと口を動かす、無言なのにやかましい男から、千秋はすーっと目を逸らした。
でも、男は大きく横っ飛びしたかと思うと、また千秋の視界に飛び込んできた。
無言なのに、やかましい。
千秋はさっと逆方向に目を逸らした。
だが、男はまた横っ飛びで千秋の視界に飛び込んできた。
また、逆方向に――。
だが、男は横っ飛びで――。
逆方向に――。
横っ飛び――……。
「ヒナ、うるさい!」
四度目の攻防に入ろうとした瞬間、千秋は反射的に怒鳴っていた。
学生時代のノリで。
しん……と、あたりが静まり返った。
訪れた静寂に、千秋はハッと口を押さえた。でも、後の祭りだ。
ギシギシと、ぎこちない動きで周囲を見回すと、チームメンバーどころかフロア中の視線が千秋に集まっていた。
全力疾走で逃げ出したいのを、何とか堪えている千秋の胸中なんて知りもしないで、
「こいつ、俺の幼なじみなんですよ! 運と要領悪いけど、めっちゃ真面目でいいヤツなんで。よろしくおねがいしまぁーす!」
茶髪野郎は千秋を指さして、周囲に満面の笑顔を振りまいた。無言でもやかましかったけど、口を開くともっとやかましい。
ついに耐えられなくなった千秋は、顔を覆って、アルマジロのように背中を丸めて小さくなった。
慰めか、励ましか。岡本がそっと千秋の肩を叩いた。
かっこいい大人の男への道のりもだけど……。
きちんとした社会人への道のりも……遠退いた気がする。
満面の笑顔で手を振る茶髪野郎こと、幼なじみ――百瀬 陽太を指のすき間から睨みつけて、千秋は涙がにじみそうになるのを必死に堪えた。