大宮律(おおみや りつ)のダブルオーな1日
スマホのアラームが遠くで鳴っている。
初期設定の『たららららんらん、たらららんらん』ってやつ。
それはいつも通りに、ワンフレーズだけ流れてぴたっと止まる。
パパだ。
アラームが止まって少しして、がらり、と隣の部屋の戸が開く。
次に聞こえるのは、とすとすとす、とちょっと小さな足音。それが廊下を抜けていって、リビングとキッチンがある部屋に入っていった。
朝ごはんを作ってくれるんだろう。
……それに対して『ありがとう』より『ダメだなあ』が先に立つ。
なにせ家にいる女はわたししか居ないのだから、朝ごはんでもお弁当でもわたしが作れば良いのだ。
もう、高校生にもなったのだし。
なんでもパパに頼りきりってのは、格好もつかない。
のだけれど。
わたしの卵焼きは形も悪くて味も微妙。味噌汁だって、なんだか香りが薄いわけで。
パパの作る、ママが作ってくれてた味からは程遠い。
だからわたしは布団をかぶってしまう。
今までどおり、昔みたいに、起こしてもらうのを待ってしまう。
それが、ダメだとも分かってるのだけれど。
-◇-
「ごちそうさまでしたっ!」
「お粗末さま。遅刻しないうちに学校いけよ」
「はーい」
言いつつ、視線は手元のスマホへ。通知はないし、時計を見ればまだ時間に余裕がある。
「パパは? 今日は会社行かない日?」
「ああ、今日は在宅勤務だな。どうかしたか?」
「や、晩ご飯なにかなーって」
会社に行く日ならスーパーの弁当とかだけど、家にいる日だとパパの手作りだ。
「確か、じゃがいもと玉ねぎあるな。カレーとシチューとハヤシライス、どれが良い?」
「カレー!」
「んじゃカレーにするか」
おうちカレーだ。甘くないやつ。
うちの味だけど、ママが作ってくれることはなかった大人のカレー。
「野菜、おっきめに切ってね!」
「はいはい。ほら、かーさんに挨拶して学校行きな」
「はーい!」
リビングの壁際、黒い桐タンスの上。そこにいるママの前まで歩いて行って手を合わせる。
「行ってきますっ!」
返事はない。けど、ママの写真はいつもと変わらずの笑顔を返していた。
-◇-
ときどき、もうちょっと勉強をマジメにやっとけば良かったな、って思うことがある。
「ばっか、おめー朝勃チンポばっきばきに勃起してんべ! 見せたろーか?」
「ぎゃーっ! セクハラだぞ、テメー! 朝からきめーモン見せてんじゃねーよサル!」
それは今みたいに、教室に入るとクラスメイトがえっちな話をしてるようなときだ。
分かってるのだ。
ズボンをカクカクと前後に揺らす猿渡くんも、まあ悪い人ではないし……。
「あ、大宮さん、おはよー! おい、サル。大宮さんの前では人類に進化しとけよ」
北見さんだって、派手メイクだけど優しい人だ。
「おはよ、北見さん! あ、さ、さわたりくんたちも、お、おはよ」
わたしがそういう話に耐性が無さすぎるだけなのだ。
「おい、サル! 大宮さん引いてんじゃねーか! 去勢するぞオラ!」
「うっせメスゴリラ! あー、大宮、悪ぃな」
恥ずかしさが混ざるわたしの声のせいで、北見さんも猿渡くんもわたしに気をつかってくれる。
そんなときだから思うのだ。
もう少し頭の良い学校なら。例えば、パパみたいに頭の良い人ばかりなら、男子はえっちな話題はしないんじゃないか。
そしたら、クラスの人に気をつかわせることもなかったんじゃないか、って。
-◇-
「今日は午後から臨時休校。寄り道せず家に帰るように」
昼休み中に入ってきた先生のその一言で、今日の学校は終わりになった。
また生徒の誰かがコロナにかかったんだろう。
入学して三度目ともなれば、ため息一つで片がつく。
がちゃり、と音を立てながら家のカギを開けると、玄関にはパパの靴が朝と変わらずに置いてあった。
「ただいまー」
軽く声を上げたけど、返事はない。きっと仕事に集中してるんだろう。
まだお昼も食べてないかもしれない。
(食べたいもの、きいて買ってこようかな)
そんなことを考えながら、リビングの扉を開く。
パパがいた。
パパがテレビの前の床に座りこんでいた。
パパの耳からは黒い線が伸びていて、それがテレビの横の方につながっていた。
そしてテレビでは、女の人がおちんちん突っ込まれてた。
えっちなやつだった。
パパの右腕が見たことない速さで動く。
テレビの中で男の人が腰を突き上げる。
女の人のおっぱいがぶるんぶるんと跳ねまわる。
耐えきれずに視線を逸らす。
写真のママが笑っていた。
息は、止まったと思う。
それから。
できるだけ音を立てないように扉を閉めて、自分の部屋に投げ入れてたカバンを拾い、靴を履いて家を出てカギを閉めるまで。
多分、呼吸はしなかった。
-◇-
カラオケとか、ご飯屋さんとか。
そういうところに行けるわけもなく、玄関の前でただ、ひたすら時間がすぎるのを待った。
1時を5分くらい過ぎてから、改めて家に入りなおす。
洗面所で水を垂れ流して『手を洗ってるような』音をたてたあと、着替えることもなくベッドに倒れ込んだ。
本当に今帰ってきたふうを装うなら『ただいま』は言うべきなんだけど、どうやって声を出せばいいのか全くわからなくてできなかった。
枕に顔をうずめると、リビングで見た光景がまぶたの裏側に再生される。
あれがなんなのかくらい、わたしにもわかる。
マスターベーション。自慰。オナニー。
セックス。性交渉。エッチ。
保健体育で習った言葉と学校で漏れ聞く言葉が絡みあっている。それに『絡み合う』って言葉がまたえっちな気がして、むちゃくちゃだった。
男の人には必要な行為なんだろう。
『それしか考えられんなる』『毎朝たってる』『ズボンに当たって痛い』
猿渡くんはそう言って北見さんに殴られてたし、きっと事実なのだ。
スマホで『マスターベーション』を検索する。ウィキを開くと『オナニー』のページに飛ばされた。
そこにも、心臓を鍛える効果があるだとか、ストレスの軽減効果があるだとか。
とにかく、いいんだよ、って言葉が並んでる。
でも、いやなのだ。
パパがそういうことをしてるって現実がいやなのだ。
夕方になったら、パパがおちんちん触った手でご飯作ることが。
ママが見てる前で、別の女のひとの裸見てパパがおちんちん勃起させてたことが。
スマホの検索候補の一番うえに『マスターベーション』がきてることが。
もう全部わけわかんなくなって、いやでいやで仕方なかった。
-◇-
「ん、うう……」
柔らかく肩を揺すられる感触を感じる。
ベッドでいつのまにか眠っていたらしい。
ゆっくりと意識は浮きあがっていって。
「ひぅっ!」
肩に触れる感触が、パパの手だと気づいて一気に目を覚ます。
「お、起きたか。晩飯できてるぞ。食べるか?」
「う、うん……」
もそもそと、ベッドが転がり出る。
ごちゃ混ぜになったヤな感じはまだ胸の中で渦巻いているのに、おなかは減っていた。
それが恥ずかしいやら悔しいやら。
顔を合わせることもできずに、パパの後ろについてリビングに向かう。
「あ……」
テーブルにはカレーが置かれていた。
わたしの大好きなカレー。
そして、パパがおちんちん触った手で作ったカレー。
「どうした? 腹減ってないのか?」
「う、ううん……。いただきます」
心配そうなパパの顔に、思わず声が出た。
そのまま椅子に座って手を合わせる。
スプーンをぎゅっと握ってカレーをすくった。それを、目を強くつむったまま口に運ぶ。
ぶわっ、と。
口の中にカレーの味が広がった。
中辛と辛口のルーを半々に使った少し辛い大人のカレー。
口の中で感じる、ざっくりと大きめに切られたニンジンとじゃがいも。
ルーでほぐれてる、ちょっと硬めに炊かれた炊き立てのご飯。
「おいしい……」
おうちカレーだった。
ママが死んだあと、パパが作り続けてくれた、いつもと変わらないカレーだった。
それで、分かる。
パパはずっと。
おちんちん触った手でご飯を作ってくれて。
おちんちん触った手でわたしの手を引いてくれて。
おちんちん触った手でわたしを抱きしめてくれてたのだ。
ずっと、そうだったのだ。
それを、わたしに欠片も感じさせることなく。そうやって、わたしを子供でいさせてくれたのだ。
思い出たちは、いつまでもそのままでありたいと感じるほどの優しさに溢れていた。
けど。ダメなのだ。
わたしはもう、パパがおちんちんを触ってることを知ってしまった。
きっと、それを嫌だと思う感情はもう消えてはくれないだろうし、ママの見てる前でママ以外の裸で勃起してるパパはホントの本気で嫌だった。
だから。うん。
「おとーさん。明日から、朝ごはんはわたしが作るね。朝は部屋でゆっくりしてて」
パパの時間を、少しずつパパに返して行こう。まずは朝。ずっとずっと大変だったはずだから。
そしていつか、わたしが十分に大人になったらそのときに。今日のことを『おとーさんがオナニーしてるのを見た1日』として笑って話してやればいい。
かきこんでいくカレーが辛くて熱くてたまらない。
だから、顔が熱くてたまらないのも、きっと仕方のないことだと。そう、思うことにした。




