9 二度と戻らぬ場所
もうこれ以上話しても碌なことになりそうにない、そう思ったトーヤはディレンの部屋から出ることにした。
「とにかくな、船に乗り遅れるってなことだけは避けたいから、それだけはちゃんと知らせてくれ。いや、俺が聞きに来る。この宿にくりゃいいんだよな? あんたは俺らの宿に来るな、いいな!」
そう言い捨てて宿から離れる姿を2階の廊下の窓から見下ろし、ディレンは楽しげに笑っていた。
トーヤはそのまま馬を引き、歩いて港まで行ってみた。
港までは町から宿と同じぐらいの距離に思えた。このぐらいの距離なら、普段から戦場を走り回って鍛えているあいつらなら楽に走れるだろう、そう確信できるぐらいの距離だった。
トーヤたちが乗ってきた「アルロス号」では船員たちが忙しそうに出入りをしていた。
「よう」
トーヤは顔馴染みになった船員に声をかけた。
「なんだ、護衛はいいのかよ」
「今ちょっと町ぶらぶらしてきてな、土産買ったから乗せていいか?」
「あーまあ、いいか」
ちょうど積み荷の搬入作業中で、防犯上の理由から人の出入りを止めていたのだが、完全に船客だと分かり切っている。あれほど目立つ一行、間違えるはずがない。
「一応、後で船長に報告はしといてくれな」
「分かった」
そう言われて顔パスで元船長室、今は奥様の客室となった部屋へと入る。鍵は常に身につけていた。
買ってきた土産の入った手提げ袋を荷物の上にぽんと置くと、寝台の上に座って一休みする。
「さて、何をどう考えるかな……」
正直なところ、行ってみなければ分からないというのが本当のところだ。
「何をやらされるんだよ、今度は」
誰も聞いていないと分かっていて、誰かに聞くように言う。
「よう、聞いてんならなんか返事ぐらいしろよな」
もちろん返事はない。
あと半月で懐かしい場所、八年前に半年ほど過ごしただけなのに忘れることのできない場所、戻りたくて仕方がなかった場所、そう、正直に言う、トーヤが戻りたくても戻れなかった年月が恨めしくて仕方がなかったあの場所に戻れるのだ。
「なんでだろうな」
生まれてからミーヤを、育ての母を失うまで暮らしたあの場所、町だけではなく多くの時間を過ごした戦場も含めた「アルディナの神域」より、荒波に揉まれて流れ着いたあの場所、「シャンタルの神域」の方がずっと自分の場所だと思えた。
シャンタルを連れて生まれ故郷を訪れ、ミーヤの墓参りをした時、やはりなんとも言えないものが胸の中に湧き上がってきた。生きていてくれて、そうして再会したかった。この場所からミーヤを置いて離れるのは辛い、そう思った。
だが、そう思ったにも関わらず、無性に戻りたい気持ちの方が勝り、ミーヤに対して、そしてどこに眠っているのかも分からない生みの母、今では名前を知ったエリスという名の女性を連れて、一緒に戻りたい、そう思ったのを覚えている。
ミーヤが亡くなった時、トーヤは傭兵としてそれなりの報酬を得ていた。そしてディレンと他に2人の「旦那」がミーヤのために金を出し合い、場末の最下層とも言える娼婦としては異例のことだが、墓に入れてやることができた。
トーヤの母エリスもそうだが、大抵の娼婦たちはそのまま共同墓地に放り込まれる。だから分かるのはどこの共同墓地に葬られたかまでだ。その時は誰にもどうしようもなかったのだ。
トーヤはもう二度と生まれ故郷には戻るまい、そう考えて、母エリスが葬られたと聞いた共同墓所に転がっていた小石を母の、ミーヤの墓石の角を少しだけ削ったものをミーヤの代わりとして小袋に入れて持ってきた。その作業中、まだ幼かったシャンタルが不思議そうに、そして悼むような目をして自分を見ていたのを思い出す。
「あの時は、ディレンと他の旦那がミーヤを参ってくれると思ってたからなあ」
自分が行かなくともさびしくはないだろう、ミーヤを愛してくれた男たちが行ってくれれば、そう思っていたのだが……
「ディレンはなんか、俺にくっついてあっち行ったっきりになりそうな、やな予感がする」
ミーヤのあと2人の「旦那」のうちの1人は、人のいい高齢のある商店のご隠居だった。この人もディレンと同じく、もう少しましな店に馴染みを持てるだけの財力のある人だったのだが、なんでかふと出会ったミーヤに惚れ込んで、孫のように可愛がるようになった。生きてる間は参ってやってくれるだろう。
もう1人は若いやはり船乗りだ。こちらはあっちこっちの港に女を1人ずつ置くのが夢だとかで、稼いだ金を全部その夢につぎこんでいた。
「どこで死ぬか分からないから、何かあった時に自分を覚えてくれてる女がどの港にも必要だ」
そんなことを言っていた。
なので、そこまで金はなかったが、トーヤの故郷の港町の女として選んだミーヤを、それなりに大事にしてくれていて、亡くなった時にも義理を果たしてくれた。その後でまた新しい女を決めてはいたが、あの町に来た時には、時々でも墓参りぐらいはしてくれるだろう。
どっちにしても、時の経過と共にいつかは誰からも忘れられるのだ。
トーヤは自分にそういい聞かせ、もう二度と戻らぬと決めた故郷の姿に蓋をした。




