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黒のシャンタル 第二部 「新しい嵐の中へ」<完結>  作者: 小椋夏己
第三章 第五節 王宮から吹く風
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13 小さな諍い

 ほんの小さな(いさか)いから、その日は突然にやってくることになってしまった。




 心の奥底に残るわだかまりを隠しながらも、ごく普通に、和やかに、その親子は話をしていた。


「おはようございます、今朝は少しばかり冷え込みを感じました」

「そうか」

「ええ、こちらに伺うまでの廊下の空気が、刺さるようでした」

「不思議なことに、天気がいい朝の方がかえって寒さを感じる。暗い雲のある日の方が温かいように思うな」

「本当ですね」


 皇太子が朝の挨拶のため、皇太子妃と共に国王を訪ねた。

 

 当たり障りのない朝の挨拶、ごく普通の季節の移り変わりの話題。

 こともなく短いやり取りを終えたら、皇太子夫妻は自室に戻り、ゆっくり朝餉をとる、毎朝繰り返されている、ほんの短い行事である。


 だが今朝は、そんな特にこれということもない会話の中で、本当に小さな、悪意もなにもない一言が父親である国王の気に障った。

 

「父上ももうお若くないのですし、あまりご無理はなさらずに」


 そう言った息子に深い気持ちはなかった。

 ごくごく普通の、高齢者をいたわる者なら何気なく口にする言葉を、何気なく高齢の父親にかけただけだった。

 

 だが、その高齢の父親は普通の父親ではなかった。

 この国の、神にも並ぶ高みに座す、この国の、人の最高権力者であった。


「何か、おまえは私を年寄り扱いするというのか」


 父親にも常ならば分かっていたはずだ、定型文のように、自分より年長の者を労る、ごくごく普通の言葉であると。


 だがこの朝、父親はいつもより虫の居所が悪かった。


 それはやはりあの女神のこと。

 たまたま昨夜、八年前のあの日のことを、ふと思い出した。




 誰にもどうしようもないことであった。

 神の死など、誰が予想できたであろう。

 だが、そのありえぬことがあったため、自分は天上に咲く花を手折れなかったのだ。




 そのどうしようもない気持ちを、本当にふと、眠れぬままに考え事をしている時に思い出してしまっていた。




 そして息子も、前夜、同じようにあの時のこと、八年前の、父親に力でねじ伏せられた時のことを、ふと、思い出していた。

 



 あの時の無力さ。

 あの時の悔しさ。

 みすみす天上の美を、初恋の女神を、目の前で実の父親に手折られるのを見せつけられる屈辱。




 だが、今はもうあの時のようにはいかない。

 あの老人は、ただ、王という座に座っているだけだ。

 それ以外はすべてで自分の方が(まさ)った存在であるのだ。

 もしもその座から降りたなら、あれはただの老人に過ぎぬ。




 そのような考えがふつふつと湧き上がり、なかなか寝つけずにいた。




 だが、目覚めた時、そんな感情は全て夢の中に置いてきたはずであった。

 いつの間にか眠ってしまい、今朝は晴れやかな明るい空が広がっていたからだろうか、思った以上にすっきりと目覚めた。

 その時に、そんな思いはすっかり忘れてしまっていた。




 だが、今、この老人のたった一言、不愉快そうな一言が、皇太子に、一気にあの不愉快な感情を呼び覚ましてしまった。

 何もなければ、そんな意図はなかったと、本当に軽く、高齢の父親の気持ちをなだめ、そうして終わっていたはずだったろうに。

 



 そうだ、この男はただの老人なのだ。

 そのような思いから、さらなる言葉が口をついて出た。




「ええ、父上はもうお年寄りなのですから、御身ご大切になさってください。そして後のことは若い私に任せて、ごゆっくり老後をお過ごしください」


 高齢の父親を労るのではなく、皮肉を多分に含んだその言葉が、父親のもやもやとどこにぶつけていいのか分からぬ感情の発露の向かう先となってしまった。




「この!」




 ガタン! 




 音を立てて国王は椅子から立ち上がると、手元にあった陶器のカップを息子に投げつけた。




 カツーン!




 カップは、まともに息子の額に当たり、割れた額からたらりと血が流れた。




「皇太子殿下!」


 皇太子妃が急いで人を呼び、駆けつけた侍従たちが皇太子を下がらせ、すぐに侍医が治療に当たる。


 幸いにも、音の割には当たり方が弱かったのか、思ったよりも傷は浅く、血さえ止まれば痕も残りそうにないということであった。


「ご無事でよかった」


 皇太子妃がホッと胸を撫で下ろす。


「心配をかけました」


 頭に包帯を巻きながら、皇太子妃に冷静に礼を言う。


「少し休みます、あなたも自室で休みなさい、大丈夫です」


 そう優しく声をかけるとゆっくりと横向きに長椅子に身をもたせかけ、心配する皇太子妃を下がらせた。


 そして、


「ラキム伯爵とジート伯爵に連絡を」


 侍従にそう指示をし、

 

「しばらく一人になりたい。伯爵たちが来るまでみな下がるように」


 さらにそう言ってすべての者を部屋から出すと、大きく一つ息を吸ってからゆっくりと吐いた。


「ありがとうございます父上、これで何も心置きなく前へと進めます。あなたは本当に息子思いの良い父親です」


 そう言うと、右手で額の傷のあるあたりを軽く押さえ、低く床に広がるように笑い出した。


「ええ、あなたがご自分で己の運命を決めたのですよ、父上。私にはまだ迷いがありました、その最後の迷いを断ち切ってくれたあなたの愛情に感謝いたします」


 そう言って低く、低く、笑い続けた。

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