1 海の向こうに
出港の朝は晴天であった。
波も静か、船は滑るように大海に乗り入れ、揺れも少なく快適な船の旅の始まりとなった。
「あ~久しぶりだな、こうして海に出るのも」
甲板から広がる海を見ながらトーヤが言う。その声まで波に飲み込まれ消えていくようであった。
戦場稼ぎとして、傭兵として戦場でいる時間が多かったトーヤであるが、ディレンに誘われて船にも乗るようになった時、海に出るとその開放感に、体の中から呼吸できたように思ったことを思い出した。
トーヤは嵐に投げ出され、命を落としかけた今でも、海を怖いとは思っていなかった。むしろ、今でも海が好きだと思っている。そういう部分では自分もまた、海の男の端くれに入るのかも知れないな、そう思いながら、ひょろっと長い、人のいい若い漁師の顔を思い浮かべていた。
「どうしてっかなあ、あいつら……」
甲板の手すりに持たれ、ぼそっとそう呟く。
「誰がだ?」
「わっ!」
気配もなく背後に近寄られて驚く。
「びっくりするだろうが、海に落ちちまうところだったぜ」
「嘘つけ」
そう言ってディレンがトーヤと並んで海を見る。
「幸先のいい出港になったな」
「そうだな、船に慣れてないやつらもいるから、最初だけでもこんなでよかったよ」
ディレンも、そしてトーヤも分かっている。
海は、いつもこんな優しい顔をしているものではない、と。
「まあ荒れる日もあるだろうけどな、そこをうまく乗り切るのが船長の腕の見せどころだ。安寧なうちは航路を外れないか様子を見る以外、これと言ってやることもない」
本当は船内のもめごと、思わぬ出来事、やることは山積みだろうに、人命に関わらぬその程度の事柄は、ディレンにとっては問題ですらないのだろうか。
「お嬢さん方はどうしてる?」
「ああ、さっき様子を見にいってきたが、ご機嫌みたいだ」
「若いのは?」
「部屋の前で番だ」
「忠実な番犬だな」
そう言ってディレンが笑う。
「今は見張る必要もなかろうにな」
「って、そりゃどういう意味だよ」
「いや、一番危ないのが甲板にいるからだよ」
「あんたなあ」
トーヤが海の方から体を回してディレンに向き直る。
「あの侍女は言葉が分かるって言っただろうが、あんな俺の信用をなくすようなこと言われたら、営業妨害ってもんだ」
「そうか? 色々と聞いてたからな、あっちこっちから」
「そ、そういうのはだな、若気の至りとか、そういうんじゃねえかよ」
「三つ子の魂百まで、とも言うな」
そう言って楽しそうに笑う
「あんたこそ、ミーヤのところに通い詰めだったじゃねえかよ」
「そうだ、俺はミーヤ一筋だったからな、純情だろ?」
言われてトーヤがグッと言葉に詰まる。
確かに、トーヤの住処であった娼館に河岸を変えてからは、一途にミーヤのところにしか通っていなかったようだ。
「まあ、航海先でどうだったか、までは知らんけどな」
せめてもの苦し紛れにそう言うが、
「俺にはミーヤだけだった」
きっぱりとそう言われ、もう言うことがなくなる。
「ミーヤだけ、か……」
トーヤのその言葉に、ディレンが何か違うものを感じる。
「なんだ?」
「ん、何がだ?」
「いや、なんか変だよな」
そう言いながら、じっとトーヤの顔を見て、
「もしかして、おまえにも俺のミーヤみたいのができたか?」
そう聞くが、
「は?」
呆れた顔をしてトーヤがディレンを見返す。
「……でもねえか……相変わらずちゃらんぽらんなことやってるか。もしかしたら、あっちからすぐに戻ってきたのも女関係か」
「はあ?」
さっきよりもっと呆れた顔をしてトーヤがディレンを見る。
「俺はあんたよりもっと純情だよ、そんなはずねえだろ」
そう言う顔がなんだかさびしそうだとディレンは感じた。
「まあいい、そのうちそういう日も来るだろうさ。それまで後ろから『あいつら』に刺されないようにだけ気をつけるこったな」
そう言って、トーヤの肩を一つどんと叩いて行ってしまった。
「何が言いたいんだよ、あいつ……」
どうやらトーヤがつぶやいた「あいつら」という言葉を、「トーヤが関わりを持った女たち」と判断したように思えた。
そしてトーヤは大海原を見ながら、頭に浮かんだ人々に思いを馳せた。
この世のものとも思えぬ美しい女神様。
鋼鉄の無表情をもちながら、本当は情に厚い侍女頭。
女神のためなら命を捨てることも辞さない大きな衛士。
自分を慕ってくれた小さな小鳥のような少女。
美人だが少し口が悪くて達者な行儀見習いの侍女とその父親。
涙もろくて人のよい、だが芯はしっかりした親友とその家族。
そして……
「どうしてるだろうな、あいつ……」
涙を流しながら笑顔で自分を見送ってくれた、オレンジ色の侍女の、最後に見た笑顔を思い出していた。
この海の向こうにいる。
もうすぐ会える。
そう思うと胸の中がふいに熱くなり、顔にまで熱を持つようで、トーヤはぐいっと顔を上げると、目をつぶり、海風に顔を晒すようにして、心地よい冷たさを受け止めた。




