澠池の会
藺相如を皆が讃えたのだが例外はいた。
廉頗である。
戦場で幾度も活躍した将軍だが、なかでも斉を討ち破り、晋陽を陥とした戦いは、他国の諸侯にまで名が知れわたるものであった。
この戦いの功によって上卿となり、今は趙国の軍事における最高責任者であった。
軍人である廉頗からみれば、藺相如は戦場も知らぬ口先だけの男である。
その男が如何に困難だったとはいえ、たった一度だけの外交による功で、上大夫にまでなったことは不快であった。
藺相如が帰国したのち、秦は城を与えることはなく、趙もまた璧を与えなかった。
そして和氏の璧が手に入らなかった不快さからか、秦は趙を討ち、石城を陥とした。
翌年、さらに侵攻し、趙は賈偃を将軍としたが、白起によって黄河に没した兵卒は、二万を数えた。
天下になる秦の強兵を率いるのは、常勝将軍と呼ばれた白起である。
戦国紀をみても比肩する者が見当たらないほどに、軍事における天才であった。
迎撃の将が廉頗でなければ、賈偃のように大敗することになるのである。
この程度の被害で趙を守りぬけたのは、廉頗の存在があればこそだろう。
のちの活躍をみても廉頗は名将といえる。
だが、この廉頗も頭を抱える問題が起きた。
その問題とは、またしても昭襄王の使者によるものであった。
昭襄王は、澠池で和睦友好を祝っての会見を申し入れてきたのだった。
しかし、この繩池という場所が曲者であった。なんと秦国の領土内なのである。
通常こういった会見は、両国が第三国に出向いて行われるものである。
さらに昭襄王は、今回の会見は祝宴だという。
信じられないことに、つまり兵を率いて来ることは不要だといっているのである。
使者からの申し入れを聞いて、趙国の群臣は昭襄王の悪意をありありと感じたのであった。
趙では、すぐに澠池の会見についての評議が始まったが、恵文王は青ざめて悲痛な叫びをあげた。
「行きたくない」
梃子でも動かぬぞ、と言わんばかりに珍しく大声を張り上げていた。
恵文王の叫びは、ある出来事が理由になっている。
以前にも言ったが、秦の昭襄王は、招いた他国の王を幽閉し殺しているのである。
殺された王とは、楚の懐王で、恵文王は関わりがあったため、そのことは良く知っている。
自分も同じ目に遭うことを恐れたのだ。
だが、恵文王の悲痛な叫びは、廉頗には届かない。