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軍政ともに荘王を支えた孫叔敖であるが、その業績の最も大きなものは土木建築であった。
荘王より、沂に城壁を築くよう命じられると、城壁は三十日をかけて完成をみたが、孫叔敖の指揮のもと、すべて予定どおりに遂行された。
これに気を良くした荘王は、楚のさらなる富国強兵を目指して、灌漑水の確保と水運の利便、さらに漁業を目的とした水利工事を命じたのである。
多すぎる要求であったが、自然を理解、利用した孫叔敖の設計思想は、荘王の想像を遥かに越えて壮大であった。
孫叔敖が創建した芍陂は、淮河中流に位置し、古代で最も早い大型灌漑水利施設である。
芍陂の全容は大別山を源流とし、付近一帯の河川をまとめて東千渠に引き入れ、その流れを長大な土堤をもって堰き止め、湖沼とするのである。
この湖沼が高所となっており、土堤に設けられた水門から、自然に落水する仕組みとなっている。
流れ落ちる水は、張り巡らされた用水路によって広大な地域に運ばれ、農地には常に一定の水が注がれるのである。
芍陂には水量を調整するための双門があり、また洪水への備えとして、淮河へ放水する迎河航道までもが設けられており、驚くべきその機能は近代と変わらない。
芍陂の完成は、当時の農業生産を飛躍的に押し上げて、楚の富強に貢献したばかりでなく、約二千五百年を経た現在でも使用され、安豊塘の人々は今も孫叔敖の恩恵をうけているのである。
孫叔敖はその晩年、隠者の肩吾に声をかけられた。
「あなたは三度も楚の令尹となったが栄誉とせず、また、三度とも職を解かれたのに憂いをみせないという。それを聞いて疑っていたのだが…。」
そう言うと、肩吾は無遠慮なほどに孫叔敖を凝視した。
「なるほど、こうして見れば、あなたの顔は晴々と楽しそうそうだ。一体、どのような心持ちでおられるのか」
問われた孫叔敖も、不思議なものでも見るように肩吾を眺め、しばらく自問したのち口を開いた。
「私の何が人に優れているといえましょう。
来るものは拒めぬし、去るものを引きとめることも出来ない。
それに、尊ぶべきは令尹の地位にあるのか、我が身にあるのかさえ分からないのです」
その意味を、肩吾は瞑想でもするように目を閉じて考えているが、孫叔敖は自問を続けるように言葉を次ぐ。
「尊ぶべきが、俸禄や爵位にあるなら私の知らぬこと。
また、尊ぶべきが我が身にあるなら、富貴の身分など何の意味がありましょうか。
このような心持ちで、四方を見回し、今も離れ難くたたずんでいるのです。
私には、人の貴賎など気にする暇はありません」
この話には、荘子の潤色があるだろうが、孫叔敖が権勢に興味を示さず、その精神がより高みにあったことが伝わってくる。
清廉で高潔であろうと孫叔敖も人の親である。
死の病に臥せるようになると、残していく息子のことが気掛かりであった。
孫叔敖は恩賞を賜っても辞退し、許されぬときは貧者に散ずるという徹底ぶりで、蓄財すらせず、わずかな家禄だけで生活していたのである。
孫叔敖が死ねば、家禄は止められ、残された家族が困窮することは目にみえている。
そこで、二つのことを言い遺した。
「私が親しくしていた優孟という賢者がいる。
生活に困れば、孫叔敖の子だと名乗り、この者を頼るがよい。
いま一つは、大王から広大な領地や、多大な恩賞を賜るだろうが受けてはならん」
孫叔敖を知ることの深い息子は驚かない。
だが、病に喘ぎながら続く言葉が意外であった。
「地味悪く、荒涼たる地を選んで大王に求めるがよい。寝丘のような痩せた地がよいだろう」
はたして孫叔敖が死ぬと、家禄を止められたばかりか、数ヵ月たっても荘王から何の音沙汰もない始末で、残された家族は途方に暮れてしまった。
さらに月日が流れると、家や土地すら手離して、あばら家に移り住んだが、暮らしは楽にならない。
ついには、山で伐採した薪を売り歩くことで、ようやく餓えをしのぐほどに貧窮したのであった。
そこで、孫叔敖の遺言に従って優孟を訪ねたのである。




