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春秋戦国物語  作者: 梅を愛でる人
荘王
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王妃と宰相

 のちに春秋五覇のひとりとなる荘王には、樊姫(はんき)という王妃がいた。


 出身は晋の樊氏の一族といわれている。


 南方の大国である楚に嫁した樊姫は、その優れた容姿で荘王から寵愛されたが、史書に名を留めたのは美女としてではなかった。


 荘王を支えた賢女として逸話を残したのである。


 荘王は即位すると、諫言した者は処刑する、と布告するや、一切の政務を放棄して、連日連夜、酒宴に明け暮れる享楽の日々を送りはじめた。


 だが、楚を憂いた心ある良臣たちも死罪が待つとあっては口をつぐみ、宮廷は賎臣の楽園と化した。


 荘王の逸楽は終わることなく続き、さしもの楚も衰退の兆しがみえはじめた。


 この状況に危機感を募らせ、命がけの諫言を行ったのは忠臣ではなく樊姫であった。


 左右に美女を抱く荘王の前に立った樊姫は、厳しく酔眼を直視した。


「大飢饉に民は飢え、百僕や慶の国々は楚から離反する動きをみせています。いつまで遊蕩を続けるおつもりですか」


 酒宴で騒がしかった宮殿が、樊姫の諫言によって水を打ったように静まりかえる。


 荘王は無言で睨むと、側近に命じて樊姫を退がらせた。


 そして何事もなかったかのように酒を流し込み、酒宴を再開したのである。


 落胆する楚の群臣だが、樊姫の諫言に続く者は現れない。


 もし楚王の改心を求めて家臣が諫言すれば、寵愛される樊姫とは違い、酒宴の余興とばかりに躊躇わず斬刑を命じると考えたからであった。


 樊姫の諫言を聞いても変化のない荘王は、酒宴とともに狩猟を好んで行なったが、鳥獣の肉を宮女たちに振る舞い、いかに獲物を仕留めたかを自慢するのが常であった。


 その日も、荘王の戦利品である鳥獣を用いた豪華な料理が並んでいた。


 荘王に酒宴と狩猟の日々を改めてもらうには、言葉を尽くすだけでは足らないと考えた樊姫は、行動で示すことにした。


 肉料理の盛られた重器には手をつけず、荘王の狩猟話がはじまると、嫌悪をあらわにして席を外したのである。


 王妃である樊姫が箸をつけないために、相伴する重臣や宮女も、気がねして肉料理を口にしない。


 この日より、樊姫は肉料理に手をつけないことで、政務を放棄する荘王を批難した。


 体調を心配する荘王が肉料理をすすめても、樊姫は決して箸をつけない。


「政務をおろそかにして、酒宴と狩猟をされる限りは頂けません。楚の民は苦しみ、賢臣、良臣の忠義は揺らいでいます。


 諸侯は侮り、いまや楚は衰亡の危機にあるのです」


 痩せゆく樊姫から、荘王に向けられるのは諫言だけであった。


 結局、荘王が愚者の仮面を脱ぎ捨て飛翔するまで、樊姫は三年余りも肉料理を口にせず、荘王の非を自らの態度で示し続けたのである。



 荘王の遊興は強権を持つ公族を警戒し、家臣の良否を見極めるためであったが、いかに賢女である樊姫でも、そこまでは見抜けなかった。


 親政をはじめた荘王は、賎臣を数百人も粛清すると、賢臣を引きあげて要職に就かせ、瞬く間に国内をまとめたのである。


 さらに反旗をひるがえした属国を討って楚の南方を平定し、衰えぬ武威を諸侯に示したのであった。


 荘王は遊興にふける日々のなか、樊姫が行なった諫言を内心では喜んでいた。


 自ら政務を執りはじめた荘王は、以前にも増して樊姫に愛情を注ぎ、その信頼もさらに深まったのである。


 また樊姫も愛情を注いだが、覇業を目指す荘王は、寝る間を惜しむかのように政務に励みはじめた。


 このようすを見て、今度は樊姫が荘王の体調を心配することになった。


 やがて楚は富強を成してゆくのだが、政務に励む荘王の退出が早まることはなかった。


「そのように無理をなされては御体にさわります。せめて、いま少し御休みください」


 いつものように夜更けまで政務に励む荘王に、憂いた樊姫が不安げに声をかける。


「賢者と話をすると、時を忘れてしまう。だが、今後は身体を損なわぬように早めに退出することにしよう」


 荘王の言葉に胸をなでおろした樊姫は、ようやく明るい笑顔をみせた。


 だが、樊姫が安心したのも、つかの間であった。


 はじめの数日こそ、荘王は政務を早めに切り上げたが、日に日に廟堂からの退出は遅くなっていった。


 深夜まで政務に励む荘王を憂いても、


「楚の富強のためであり、それが民のためにもなる。いくら時を費やしても、賢者と話すことで学ぶことは尽きぬのだ」


 このように言われると、樊姫も強く責めることはできない。


 しかし、ふとあることに思い当たる。


「大王のおっしゃる賢者とは、どなたのことでしょうか」


虞丘子(ぐきゅうし)だ」


 聞いた樊姫は、口に手をかざすと体をよじって笑った。


「なにが可笑しい」


「なるほど、虞丘子は智者ではありますが、心術優れぬ奸臣でございます。そのような者から、大王が何を学ぶことがあるのか可笑しくて」


「虞丘子が奸臣とは、あの者の働きを知らぬ訳ではあるまい」


 表情を曇らせた荘王は、いわれなき讒言であるなら、たとえ樊姫でも赦さぬというように語気を強めた。


 実際、この十年余りで楚が隆盛した一因は、令尹である虞丘子が内治に大きく貢献したことも事実であった。


 しかし、樊姫は怯むどころか、皮肉な笑みさえ浮かべる。


「されば申しあげます。虞丘子が令尹となってより推挙した者は、血縁の者でなければ、彼の子弟でありましょう」


 荘王が思い返してみると、確かに樊姫のいう通りである。



「虞丘子は縁故の者のみを高位の官職に据えて、一族縁者で財を貪っているのです」


 樊姫が偽りをいっているとは思えないが、虞丘子の推挙した者は無能な人物ではなかった。


 虞丘子を高く評価する荘王は、釈然としない。


「聡明な大王らしくもない。そのお顔をみると、まだ納得のいかないご様子ですね」


 と、屈託なく小さく笑う。


「では、私は妃となって十一年になりますが、その間、鄭や衛など諸国に人を求めて、大王に紹介いたしました。今では私より才徳ある者が、幾人も大王のお側に仕えております」


 能吏から後宮の美女まで、樊姫より薦められた多くの者たちが荘王の頭に浮かぶ。


 いずれも才ありながら清廉なる人物で、樊姫の人をみる目の確かさがわかる。


「虞丘子はどうでしょう。楚の令尹として十余年ですが、賢者を推挙し、愚者を斥けたと耳にしたことはありません。


 これは、大王を盲にして賢者の登用を拒むものです。


 虞丘子が賢者を知りながら推挙しないのは不忠です。また賢者を知らぬなら、不智と申すべきでしょう」


 語り終えた樊姫は、いたずらそうな笑顔で荘王をみる。


「もっともだ」


 素直にうなずいた荘王は、樊姫の賢に喜びながらも、虞丘子を盲信していたことに自嘲する思いであった。



 朝見にきた虞丘子に、荘王は昨日の樊姫の言葉を伝える。


 話を聞くや、みるみる青くなった虞丘子は答える術を知らず、ただ恐懼するのみであった。


「臣は令尹にあることが、久し過ぎたようにございます」


 ただちに令尹を辞した虞丘子は、賢者を後任にあげて不智ではないことを示した。


 楚屈指の名宰相となる孫叔敖(そんしゅくごう)を推挙したのである。

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