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藺相如の怒髪天を衝く凄まじい迫力に、居並ぶ百官は一様に固まってしまっていた。
「ま、待て」
昭襄王はかろうじて声を絞り出した。
(ここで、この者を殺しても、璧が砕けてはつまらん)
忌々しさを噛みしめ、藺相如の機嫌をとる。
「その申しよう、尤もなことだ。卿(大臣:この場合は使者)に詫びよう。和氏の璧を是非にも貰いたい」
昭襄王は係りの役人を呼んで、急ぎ地図を持って来させた。
その地図を持って藺相如へと近づくと、指で差し示しながら声を掛ける。
「約束の通り、この地にある十五の城邑を趙国へと割こう。証としてこの地図を卿に与える」
藺相如はそれを聞くと、声音を普段のものに戻した。
「趙王は天下に知られた和氏の璧を贈るにあたり、大国である秦国を敬って五日間斎戒(身を清める)しておりました」
「ふむ。そうであったか」
「大王にも同じく五日間斎戒していただきたいのです。しかるのちに、和氏の璧を大王に献上いたします」
決死の藺相如に圧されながらも、昭襄王は打開策を模索する。だが、藺相如に油断はなく、力ずくで奪うことは難しいと知ると、仕方なく苦しげな声をあげた。
「分かった。寡人(王の一人称)も五日間斎戒し、再び、卿と会おう」
和氏の璧を持った藺相如は、広成伝舎(国賓を迎える宿舎)へと案内され、待遇も改められた。
その夜、従者を粗末な衣服に着替えさせると、趙へと急ぎ戻らせた。
昭襄王は五日間の斎戒を終えると、今度は九賓の礼(非常に丁重な賓客を迎える礼遇)をもって、藺相如を迎えたのであった。
昭襄王はさぞや満足であろうと、毒突く気持ちを込めて藺相如に向き合う。
「では、和氏の璧を頂戴したい」
しかし、昭襄王は信じられない言葉に、自分の耳を疑うことになる。
「和氏の璧は、既に私のもとにはございません」
藺相如は平素と変わらぬ様子で、昭襄王に向かって放言したのである。
従者に璧を持たせて、間道を急ぎ走らせた。
今頃は、趙に着く頃であるから、逮捕の兵で追っても無駄である。
そう説明して、藺相如は静かに語りだした。
「秦は穆公より二十代あまりですが、歴代の君主が、固く約束を守られたことはありません。もしも、大王の欺きを受けまして、十五城を与えられなければ、趙王に申し訳が立ちません。それ故に従者を走らせ、和氏の璧を趙国へと戻しました」
昭襄王は余りの出来事に唖然とし、百官も理解を越えた事態に茫然として顔を見合わせた。