中華の覇者
荘王の溢れる野心は、楚軍の目まぐるしい動きによってわかる。
先ずは鄭を討った。
その翌年には、再び鄭を討って盟を結ぶ。
そして、舒を滅ぼすと渇水まで領土を拡げ、呉と越と同盟した。
同年、晋の盟下となった陳を討って和を結ぶ。
これ以降も、荘王は繰り返し、陳と鄭に軍旅を向けた。
特に鄭には多く、最初の侵攻から後々まで数えると七度も攻めている。
小国である鄭は、その立地が晋と楚の両大国に挟まれ、つねに国の存亡を賭け、どちらかの国につかねばならなかった。
楚に従えば晋に攻められ、晋に屈したならば楚に攻められるという有様であった。
同情の余地はあるが、この両国から信用されぬ外交は、日の出には楚に従い、日の入りには晋に屈する、と諸侯にまで嘲笑された。
そして再び、楚に従っていた鄭が背いて、晋と盟を結んだのである。
この繰り返される鄭の裏切りに、激しく怒った荘王はまたも軍旅を向けた。
だが、この侵攻は、いままでのように圧力をかける程度ではなく、徹底的に楚の武威を見せつけるつもりであった。
意を決した荘王は、楚の三軍を率いて鄭の領内に攻めこんだ。
鄭の襄公は晋に急使をだして援軍を求めた。
到来した楚軍に対して、鄭軍は必死に坑戦するが、すぐに押し込まれて都を包囲された。
城壁を頼りに防戦するが、楚軍は引き上げる気配を見せない。
恐怖した襄公は重臣たちに訊ねた。
「荘王はこの鄭を、陳の如くにいたすつもりであろうか」
「それは、わかりません。今はひたすらに耐え、晋からの援軍を待ちましょう」
襄公ばかりでなく、重臣たちも陳のことを頭に浮かべ暗い気持になった。
陳も鄭と立場が近い国であったが、少し前に陳の霊公は家臣の夏徴舒に殺された。
これを知った荘王は、夏徴舒を討つ、と諸侯に呼びかけ、連合軍を率いて攻めた。
夏徴舒を殺すと勢いのままに陳を滅ぼし、楚の領土にしたのだった。
こののち家臣の伸淑時の諫めにより、霊公の太子を立て、陳を復興させた。
しかし、新たに太子を立てて陳を復興させたとはいえ、陳が一度は滅亡したことは、鄭人の記憶には鮮明であった。




