完璧
この引見により、藺相如を逸材であると認め、すぐに使者として抜擢した。
恵文王の命によって使者が藺相如に決まると、群臣は驚きどよめいた。
宦官の舎人という身分の低い者が、趙の国使となったからだ。
だが、これはもちろん王の代理に相応しい、仮の官職に就くのである。
しかし、居並ぶ群臣が最も関心を持ったのは、藺相如の受け答えであった。
これを聞いて、秦王の非を責めれば生きては帰れまいと、藺相如に同情を寄せたのだった。
こうして和氏の璧を携えた藺相如は、従者を数名連れて趙を発った。
そして、秦国の首都である咸陽へと無事に到着して、昭襄王に謁見したのである。
だが、昭襄王が引見した章台なる宮殿は、格下の国の者に会うときの別殿であった。
しかも、和氏の璧を待ちわびていたのか、既に百官を集めて宴席まで設けていたのである。
藺相如はこの様子に侮蔑を感じていたが、笑みを浮かべて互いの国の友好を大いに讃えた。
そして、和氏の璧をうやうやしく捧げて進むと、玉座の昭襄王に厳かに差し出した。
和氏の璧を受け取った昭襄王は、様々に光にかざして満面の笑みで眺めた。
やがて、寵姫や家臣にまで璧を回してゆく。
秦の群臣は大声で万歳と叫び、璧を手に入れた昭襄王を祝い、王宮は歓喜に包まれたのであった。
その様子を、藺相如は冷やかな目で眺めていた。
ふと、寵姫と機嫌よく話している昭襄王と視線が合う。
しかし、璧を手に入れた今となっては、藺相如には興味がないと言わんばかりに、その目は無関心という他なかった。
一方、藺相如はその目を見て、昭襄王には趙に十五城を譲るつもりはないと確信する。
意を決した藺相如が、昭襄王の前に進み出てゆく。
「実はこの璧には、小さな瑕があるのです。それを大王にお教えいたしましょう」
そう言うや、和氏の璧を素早く奪い取り、柱に向かって駆けていった。
振り返った藺相如は、怒りにより髪が逆立ち、冠を衝き上げんばかりの恐ろしい形相であった。
その恐ろしい顔のまま昭襄王を睨みつけ、喉も裂けんばかりに激しく声をあげた。
「『秦王は妄言の人であり、信用することは出来ない。和氏の璧を奪われるだけだ』我が趙の廟議では群臣が揃って、こう声をあげました。 しかし、私が考えまするに、無官の者の交わりでさえ、互いを騙しませぬ。ましてや大国の交わり。璧ひとつで、秦との親睦を損なうなど不要。国と国とは信義を持って交わるべきだと申しあげると、趙王も同意してくれました」
更に厳しく睨みつけ、辺りが震えるほどに激しく大喝する。
「しかるに大王の引見の様子、趙の使者である私を見下し、天下の至宝を侍女へ、家臣へと回して、見せ物とされた。信義の欠片もみられませぬ。この礼節なき扱いを受ければ、我が国に城邑を与える意思があるとは思えません」
和氏の璧を高々と掲げ、決死の気迫を漲らせた。
「礼なく辱しめをなさるなら、私の頭もろとも、和氏の璧をこの柱に打ちつけて砕きましょう」
今にも、柱に打ちつけんと構えたのである。