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幽繆王の使者は、李牧と司馬尚の任を解き、趙忽と顔聚を新たに将とするという。
ただし李牧が帰国したのちは、相国に任ずると王命を伝えた。
諜報を重要視する李牧は、趙の様子が分かっていた。司馬尚でさえ、これが秦の策であることを理解していたのである。
「秦軍と対峙しているいま、将として陣中にあり、たとえ君命であろうとも受けることはできない」
李牧は拝命を拒否したが、司馬尚は趙に絶望して嘆き天を仰いだ。
使者が去ると、司馬尚は心中を隠さず、憤りのままに語りかける。
「李将軍を相国にすることで、軍から切り離そうとしているのは明らかです。ですが、君命を斥けたことで、愚かにも趙の廟堂では、李将軍に叛意ありと叫ぶでしょう」
司馬尚の悲観的な見通しに、李牧は目を閉じて頷いた。
「もっともなことだ。だが趙忽と顔聚では、王翦に敗れるであろう。秦軍を破ってのち、大王に赦しを請うつもりだ」
李牧は大きく嘆息すると言葉を次いだ。
「しかし王翦は容易く隙をみせまい。それまで大王が私を叱責するのみであればよいが」
その頃、趙では李牧の謀叛は明らかであるとして、郭開が幽繆王を執拗に説き伏せていた。
熱弁をふるって許しを得た郭開は、趙陣にひそかに力士を遣わす。
郭解の命をうけた数名の力士は、有無を言わさず李牧を捕らえると、そのまま斬り殺したのであった。
司馬尚も任を解かれ、ただちに帰国の途につくよう、王命が告げられた。
新たに趙忽を大将、顔聚が副将となり、趙軍を率いることになった。
しかし、李牧を殺された代の兵は激昂し、次々と趙軍を離れていく。
新任したふたりでは、これを押し留めることが出来ず、中核を失った趙軍を率いることになったのである。
李牧の死を知った王翦は、もはや敵無しと言わんばかりに悠然と軍を進める。
趙軍を挑発して誘い込むと、伏兵をもって軽々と粉砕した。
趙忽は討たれ、顔聚は遥か邯鄲まで敗走した。
趙の臣民が涙し、邯鄲では幽繆王が臣礼して秦王を迎えることになった。
李牧の死から、僅かに三ヶ月後のことである。
刎頸の交わりまでの修正を終えて、趙の滅亡まで書き終わりました。
史記の廉頗藺相如伝を、捻りもなく書きました。
史記の列伝はあまりに簡潔なので、左氏伝や戦国策、呂氏春秋などから拾った記述を適当に足した感じです。
ふり仮名が減ってますが、基本的に音読みで大丈夫です。読みが統一されてない人物や地名もたくさんありますので。
宛字があります。
趙忽の忽は草冠です。桓騎も違います。他にもあったかも知れません。




