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噂すら耳にしたことない男の名に、恵文王は首を捻って尋ねる。
「はて、藺相如とは聞かぬ名であるが、その男は如何なる者か」
「かつて、臣が愚かにも罪を犯したことを、王は憶えておいででしょうか」
と、繆賢が問い返した。
記憶にあった恵文王が頷くと、藺相如を知った出来事を話はじめた。
それは、繆賢が過ちを犯した時のことである。
繆賢は罰を恐れて、燕に亡命しようとしていた。
それを知り、藺相如が尋ねた。
「主は燕国に知人がおられるのですか?」
「以前に我が君と同行して燕国へ行った。その時に厚遇されたのだ。更には燕王にまで親交を求められたのだ」
藺相如は、悲しげに首を横に振った。
「燕は強国である趙を恐れ、趙王の寵臣である主を厚遇したのです。もし、このまま燕に行けば、趙王の機嫌を損なわないように捕えられ、送り返されるでしょう」
「ううむ。まったくその通りだ。では、何か良い策はないだろうか」
藺相如は厳しい顔で見つめた。
「いえ、策は不要です。肌脱ぎし、斧を首に乗せて趙王に謁見するのです。そして、趙王に全てを告げて、赦しを乞うのです」
この先は恵文王にも覚えがあった。
繆賢は、藺相如の意見に従ったのだ。
「王に罪を告げ、赦していただきました。今の臣が変わらず王のもとにあるのは、藺相如のおかげなのです」
そう言って話を終えた繆賢は、藺相如を知勇の士であると信じて疑わない様子であった。
話を聞いた恵文王は、すぐに藺相如を召し出した。
だが、引見してみると、藺相如は身分の賤しさもあってか、みすぼらしい男であった。
勇があるようにも思えず、繊細で優しそうな印象である。
しかし、落胆を表情に見せることなく、藺相如に意見を求めた。
「秦より、十五城と和氏の璧の交換を求められた。予は璧を与えるがよいか、どう考える」
「秦国は強大であり、その申し出を拒むことは出来ません。いかに天下の至宝であろうと、和氏の璧は与えるべきでしょう」
さも当然だとばかりに意見を述べる藺相如に、恵文王は続けて問い掛ける。
「されば、璧を与えたのちに、秦国の十五城が譲られぬとあればどうする」
「秦王が欺けば、秦の非道を天下が知ることになりましょう。我が趙は、天下に信義を示しましょう」
恵文王は値踏みするように、藺相如を窺いながら声をあげた。
「だが、使者となる者がおらんのだ」
藺相如は気負った様子もなく答える。
「ならば、私が使者となりましょう。璧を持って秦国へ向かい、十五城が譲られたなら秦王に璧を贈りましょう」
恵文王の疑問の顔に、穏やかな笑みで言葉を続ける。
「秦王が不義を為して、十五城が趙国のものとならないなら、璧を完いたします」