趙奢
廉頗と藺相如が、刎頸の交わりを結んでのち、秦は盟を守って侵攻してくることはなかった。
憂いのなくなった趙は、毎年のように軍を展開する。
その年に、廉頗に軍を与えて斉を討つと、斉の一軍を全滅させた。
そして二年後、廉頗は再び軍を東に向けると、斉領の幾を攻めおとした。
三年のちには、廉頗が率いた趙軍が、魏の防陵と安陽を陥落させるのである。
その翌年には、藺相如が軍を率いて斉の平邑まで侵攻した。
我欲の強い秦が盟を守ったことにより、趙の中原攻略は当たるべからざる勢いであった。
しかし、ついに盟は破られ、秦軍と争うことになったのである。
韓を討とうとした秦軍が、趙の領土内である、閼与に布陣したのだ。
さらに韓は秦に屈すると、連合して閼与を囲んだのだった。
報せをうけた恵文王は、廉頗を呼んで訊ねた。
「閼与を救いたいのであるが、どうじゃ」
「道は遠く、狭くて険阻であります。援軍を出すのは難しいでしょう」
どうしても閼与を救いたい恵文王は、次に楽乗を呼んで、再び訊ねた。
楽乗は、名将である楽毅の一族である。
「閼与までの道のりは、山越えの狭き難路であり、救うことは出来ないでしょう」
だが、恵文王の期待は裏切られ、廉頗と同じ答えであった。
恵文王は、軍事を担当する廉頗と楽乗に否定されても、民を救うことを諦められなかった。
自らも悩み、様々な群臣に訊ねたが、廉頗より軍略に長けた者など趙にはおらず、恵文王の顔が晴れることはなかった。
そして恵文王は、閼与を救いたい余りに、趙奢にも声をかけたのである。
問われた趙奢は、驚いたことに閼与を救うことが出来るという。