刎頸の交わり
だが、さすがに藺相如の異例の出世には、不平を感じる者が少なくなかった。
なかでも特に廉頗は口舌の徒であると嫌っていたが、藺相如が上卿の筆頭となったことで、趙における席次が彼の下になってしまったのである。
(下賎の者でありながら舌三寸で王にとりいったのだ。趙国にあって野戦攻城の武勲並ぶ者なき自分より、そんな口舌の男が上位だなど許せぬ)
ついに、廉頗の不満は爆発した。
誰彼かまわず、つかまえては声高に放言した。
「賎しき出の奴の下など、恥ずかしくて立てぬ」
憤激にその顔を歪め、更に言葉は激しさを増していった。
「藺相如に出会ったならば、何処であろうと必ずや辱しめてやるぞ」
辺りを憚らず、怒声でこう言い放つのだった。
藺相如は他の群臣の妬みは分かっていたが、相変わらず熱心に政務を執っていた。
しかし、廉頗の放言を噂で聞くと、行動に変化がおきた。
廉頗を避けるようになったのである。
廉頗と共に朝見せねばならない日は、病であるとして家から出なかった。
外出する際にも、廉頗を避け、彼の姿が遠くからみえると、車を退けて逃げ隠れた。
従者たちは、そんな藺相如をみて嘆いた。
「我らが、家を離れてお仕えしたのは、君の高義を慕ってのことです。ところが、君は廉将軍の悪口を聞いてから、恐れて逃げ隠れております」
従者たちの非難に、藺相如は静かに頷く。
「これは庸人(雇われ人)でも恥ずべき態度で、将相なら尚更のことです。我らはこれ以上、君にお仕えすることは出来ません」
顔を顰めて、従者らは立ち去ろうとする。
それを引き止めた藺相如は、恥じる様子もなく問いかけた。
「あなた達からみて秦王と廉将軍では、どちらに威があるだろう」
「それは、もちろん秦王です」
「では、その秦王を叱咤して、秦の群臣を辱しめたのだ。この相如、どうして廉将軍を恐れようか」
押し黙る従者たちに、藺相如は優しく語りかける。
「私の考えるところ、強秦が軍旅を向けないのは、趙に両人がいるからである。この両虎が争えば、片方は無事ではあるまい」
従者たちも理解して頷いた。
そして藺相如は、いつもの気迫に満ちた様子で声をあげた。
「私が廉将軍を避けるのは国家を先として、私讎を後にするためである」
これを聞き、従者らは感嘆しきりで、藺相如に深く詫びたのである。