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中庭の跳馬

作者: 乙野花子

追われてるんだ。

そういう父からの電話で私は新幹線に乗った。宇都宮以北には行ったことがない。

窓の外は鉛色で寒かった。電話口で住所をささやくと受話器が置かれた。

検索窓口に番地まで入れると湖の名で知られる町の名前の近くに矢印が立つ。

湖は思いのほか内陸にあり、住所は海側だった。

新幹線の車内で、町にいくつかあるホテルの一つに宿を取り、レンタカーを予約する。

雪が降っているかな。常識からすればそうだろう。車はずいぶん運転していない。


初老のスタッフに電話番号でも目的地を入力できると教わって、エンジンをかける。

そろそろと車道に出て行く私の車を、最敬礼する背中が見送っている。


父に面会を済ませると、することがなくなった。旅館を建て替えた古いホテルに

この時間からこもるのもさびしいだろう。

駐車場には自分のレンタカー以外になく、車内に寒さがしみこんでくる。

エンジンをかける。ラジオの入りが悪い。ああそうだ、美術館があったはずだ。

新幹線の中で町の名前で検索すると必ず出てきた施設の番号をカーナビに入れる。


シャッターが下りたままの店が連なる小さなメインストリートを左折する。

右手に美しい馬の彫像が後ろ足で立っており、背後にガラス張りの立方体がいくつも重ねられた建物が見えた。

入り口を入ると右が美術館で、左が文化ホールだった。併設のコーヒーショップの入り口に、イタリアのコーヒー豆ブランドのステッカーが張ってある。

チケットを1枚買う。

展示は現代美術らしかった。

作品は一つ一つ展示棟に置かれ、空間と作品のバランスが素晴らしい。

美術にそれほど関心があるわけではないが、それくらいは感じ取れる。


へえ。

次の部屋に入って、私はひとりごちた。球体が棟の中央に鎮座している。壁は高く、天井は透明で、もうずいぶん前からこの辺りを覆っているらしい積雪のぼんやりとした明かりを高みから降らせてくる。

部屋の隅による。携帯を取り出して、上を向く。

足音が響いて、スカートの足が球体の向こう側に現れると、撮影は禁止されています、とひどく厳しい調子で言った。私は携帯を胸元に下ろす。

フラッシュなしだけど。

撮影は、禁止されてるんです。

監視員の女はスカートの足をこちらに向けて、部屋の中に入ってくる。厳しい顔の女だ。

写真は削除していただけますか。

撮ってないよ、注意されたから。

削除してくださいね。

私は携帯を女に向けた。

そういうのもやめてください。

作品だけじゃないの。だめなのは。

プライバシーって言葉知らないんですか。

私は携帯を手に棟の外に出る。女がついてくるかと思ったが、棟と棟をつなぐ透明な廊下は私一人だった。


美術館を後にして、メインストリートへ歩いていく。周囲はすべてがほんのりと蒼く染まっている。

商店街では誰ともすれ違わず、喫茶店の一つもなかった。暖房器具を扱う店が写真のプリントもやっていた。携帯の中で父の写真を広げる。最後列に女の写真があった。

女の写真を一枚だけ注文し、手の中で写真を全て消去する。

灯油のにおいがして、会計の老人がみかんをひとつくれた。


先ほどの駐車場を横切って建物に入ると、美術館チケットカウンターの若い男が、先ほどこられた方ですよね、どうぞ、と言い、展示室入り口へ私を促す。

ほんとうはコーヒーショップに立ち寄ろうと思ったのだ。そう思いながら鑑賞ルートを辿る。

今度はどの監視員にも出会わなかった。

先ほど素通りした後半の作品を丁寧に見終わると、チケットカウンター横の出口へ出た。

湖に行くには寒いし、帰りの道路が凍結するかもしれない。

コーヒーショップのドアを押し、エスプレッソを注文する。ここも中庭に面する一辺が天井までのガラス張りだった。

暖房が効きすぎていて、コートとジャケットを脱ぐ。

外は青白い夕闇が迫っていた。中庭の照明が時差式なのだろうか一斉についた。

中央の跳ね馬が、青い背景によりいっそう濃く立ち上がる。

私はセーターも脱いで、フランネルのシャツ一枚になった。

コーヒーカップに砂糖の袋をふたつあけるとスプーンでかき混ぜて飲み干す。

数人の女がスタッフルームと書かれたドアから出て来た。中央にさっきの女がいる。女が私に気付いて体を固くするのが分かった。

逡巡するような間のあと、先ほど同様とがめるような足音を立ててこちらへやってくる。

あの、逆恨みとかだったら責任者呼んで来ますけど。

女が小声で言う。

ちがうよ、旨いコーヒーが飲めそうなとこ、ここしか見つからなかったんだ。

つけたりとか、やめてくださいね。

つけないよ。

女はきつい顔で睨むのを止めなかった。

追われてるんだ。君をつけたりなんかしないよ。

追われてるって。

足を止めて女を待っていた他の二人が、薄笑いの語尾で、お先に、と去っていく。

誰に、追われてるんですか。

とがめるような口調は、もしかしたらこの女の元々の癖なのかもしれないと私は思った。

この辺、あんないしてよ。

え。

土地勘ないし。

あの、美術館の向こう側に観光案内所がありますけど。

そうだね。

女の視線は後ろ立ちになる馬の向こうを指していた。

この馬、牡なのかな。

馬ですか。

初めて見た、というように女の視線が馬の彫像に合う。

コーヒー、お詫びにおごるよ。申し訳なかった。

女は馬を見つめたままだ。

馬の周囲にいつのまにか大きな雪片が舞っている。

私は砂糖の袋に印字されたアルファベットに指でシワを作っては伸ばす。

八王子から歩いてきたんだ。

父の乾いた唇はそう言った。実際は産廃業者のトラックが父を拾って山を下りたらしい。それでも追っ手はすぐに居場所を探り当てるらしかった。そんなことをもう、8年も繰り返している。

女がため息をついて向かい側に座る。

マッキアート、お願いします。

私は立ち上がってポケットの小銭をまさぐる。

携帯がテーブルの上で震えた。

追われてるんだ。

受話器の向こうで父が言った。

男がさっき来たよ。短髪の眼鏡をかけた男だ。

わかった。

通話を終えると女がこちらを盗み見る。

県北に行きたいんだ。

県北、でいいんですか?

女の背後で雪が濃く降りだしている。

女はもう一度外を見た。

牝ですかね。若い牝馬。

そう言って席を立つ。

私は女の後を追う。

車、どこですか。

あのレンタカー。

ロックを解除すると、女が上半身を助手席に入れてくる。

エンジン、かけて下さい。

言われるがままにキーを回すと、女は電話番号を入力して目的地を設定した。

県北に行けます。女がささやく。

誰にも追われずに。

ドアが閉まった。

ゆっくりと車を出す。駐車場にはもう誰もいなかった。

車道は緩やかな弧を描き、しばらくすると有料道路へ入った。白く霞む料金所の手袋に900円を預けて、アクセルを踏む。遠くにテールランプが見え隠れしていたがそれもそのうち見えなくなった。

辺りはしんとしていた。ほの蒼い視界が全体に広がるばかりだった。しんとしていて前も後ろもなかった。

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