八
新しく承認された薬を投薬しはじめたのが新緑の季節で、それからは景子の体調が徐々によくなっていった。
手術の必要もなく、秋の初めには退院できる、と担当医に言われた。完治はしないが、入院し続けなくてもよいそうだ。
「これが最後の外出許可になるのかな」
不吉な意味にとられかねない言葉だ、と耀は思った。幸い、他の人に聞かれてはいないようだ。
「来週退院だしね。私は学校があるから来られないけど」
「わざわざ休むようなことでもないしね。お父さんが迎えに来てくれるし。颯爽と」
「さっそうと……?」
娘は、父の颯爽とした姿を想像できなかった。
「それはそうと、どこに行くの?」
病室を訪れて、すぐに外に連れだされた娘が尋ねた。
「少し歩くだけだよ。上から見て、目立ってたし。近くで見てみたいって思ったの」
「何を?」
「行ってみてのお楽しみ、ということで」
「はーい」
病院を出て、緑の稲穂が並んでいる田圃の横を歩いた。
「ほら、あれ」
母は田圃と道の境目、あぜ道のあたりを指さした。雑草の中に赤色が目立っている。
その花に、耀はあまりいい印象を抱いていなかった。病室から見える場所に毎年咲くその花を、なるべく母に見せたくなかった。
「彼岸花?」
わかっていたが、尋ねるように言った。
「うん。またの名を曼珠沙華。学名は、確かリコリスだったかな」
「よく知ってるね」
「好きな花だからね」
「そうなんだ」
意外なことだった。今まで、そんな素振りもなかったし、そんな話もしなかった。
「病人が彼岸花をじっと見てたら、心配するでしょ」
「するね」
「だから、なるべく見ないようにしてたんだ」
知らない間に、気を遣わせていた。
耀は、母に見せる写真に写るものに気を付けていた。見せたくないものは、写さない。余計なものはファインダーの白枠の外に出した。写らなければ、母が見ることもない。
そう思って写真を撮っていたのと、同じことかもしれない。
「もう少し歩くよ」
と、母が言った。
「疲れたらちゃんと言ってね」
「わかってるよ」
国道を渡り、スーパーの横を通って農道に出た。細い道を山脈の方に向かって歩く。高架線を過ぎると、町の東を流れる川が見えた。向こう岸に、彼岸花が敷き詰められたように群生している場所があった。
「こんなにたくさん咲いていたんだ」
対岸を見て、耀が言った。近所なのに知らなかった。
「何年ぶりかに来たけど、前より増えてる気がする」
対岸ほどではないが、こちら側の岸にも彼岸花が咲いている。良くない印象が先にあり、じっくり見る機会がなかったが、一本だけ見てみると綺麗な形だった。
「彼岸の時期に咲くから彼岸花であって、あの世に咲いているわけじゃないからね。ほら、此岸にも生えてるし」
「それはそれとして、近くで見るときれいな花だ」
「そうでしょ。毒あるけど」
「え?」
「害獣対策で田圃のそばに植えられたんだって。もぐらとか。毒を抜けば食べられるらしいよ」
「なんだかなあ」
綺麗だと思った途端に毒があると言われるとは。
母は、ぽつんと一輪だけ咲いた彼岸花のそばにしゃがんだ。
「それでも、この花が好きなんだ。濃い赤色と形がいい」
耀も母の隣にしゃがんで、花にカメラを向けた。母は娘の様子を眺めながら話した。
「彼岸花は三倍体だから、こうやって一輪だけ咲いているのはめずらしい」
「三倍体って?」
耀はファインダーを覗きながら聞いた。
「染色体の数が三倍ってことなんだけど、種子ができなかったり、できにくかったりする」
「なら、どうやってふえるの?」
「球根。だから近くに生えてくるんだよ」
「なるほど」
家の庭の手入れをしているからといって、知らないことはまだまだある。これからは、母と一緒に植物のことを知っていこうと思った。
耀は花の反対側に回りこんで、再びカメラを構えた。
「一輪だけって、なんか、たくましいね」
「でも、一輪だけだと寂しいよ」
そう言って、耀はシャッターを切った。
「どんな写真を撮ったの?」
「現像してからのお楽しみということで」
娘は笑って、そう答えた。