二
「部活で出かけてきた」
夏のある日、彼女は現像した写真を差し出して言った。最初の写真が駅舎を撮ったものだったので、行き先は言わなくても分かった。
「電車で行ったの?」
「うん」
彼女が行ったのは隣の市だが、電車だと間にもう一つ他の市を通ることになる。バスだと山を越える道を走るが、電車よりも料金が高い。
「今回は枚数が少ないね」
母は受け取った写真をめくりながら言った。
「失敗したのは抜いてあるから」
「今度は全部持ってきてよ」
「えー」
彼女は抗議するような声を出した。
「見たいな、失敗したのも」
「気が向いたらね」
母は彼女が撮った写真を、一枚ずつ時間をかけて見た。その間、彼女は窓の外を見ていた。
下には三階建ての棟があり、その向こうに田圃がある。稲は伸びきって、稲穂をつけている。色が変わるまではまだ時間がかかるのだろう。
田圃の先には高速道路と高架線が横切り、その奥には緑色の山々が連なっている。
あの山を越えると隣の市に入り、海が広がっている。
「いやー、海が青いね。いつもより三割増しで青い」
「太陽の光で、実際はそんなに青く見えなかったけど」
「もしかして、ポジフィルム使った?」
「うん。たまにはね」
彼女は鞄からフィルムのスリーブをいくつか取り出した。写真をそのまま縮小したような、小さなスライドが並んでいた。
「懐かしいなあ」
窓のほうにスリーブを向けて、透過光で小さな写真を見た。何枚か黒いもしくは白くて、何が写っているかわからないような写真があった。そういった失敗をしている写真以外は、スリーブを覆うビニールにマジックで丸が描かれている。
「海は撮るのが難しい」
「そうだね。なにもないと似たような構図になっちゃうよね」
スリーブを返して、再びプリントされた写真をめくりはじめた。
「そうそう、こうやって海だけじゃなくて手前に何か写ってたほうが、バランスがいいよね」
「それは、灯台の下で撮った。眺めのいい場所なのに人がいなかった」
次の写真は、三人の人が海沿いの崖の上にいるもので、その次は三人ともカメラの方を向いていた。真ん中の人がカメラに向かって手招きをしている。
「おいでーってやってる人が部長さんだよね」
「うん」
「で、左が副部長さんで、右が先輩だよね」
「まあ、全員先輩なんだけどね」
「佐倉君は?」
「この時は私の横にいた」
「仲がよろしいことで」
母は笑みを浮かべながら娘を見た。
「なにか?」
「いえいえ、お気になさらず」
さらに何枚かめくっていき、一枚の写真で手を止めた。母は、懐かしむような目をしていた。
「夕方には、こんな景色になるんだ」
ひとりごとのようにつぶやいて、しばらくその写真に見入っていた。
「行ったことあるの?」
彼女はそう尋ねた。
リアス式の入り組んだ海岸が一望できる場所で撮った写真だった。海岸の形は複雑で、一見しただけではどこまでが海なのかわからない。入江の先が細くなって、川のように見えるところもある。
その日の最後、日が沈むころに訪れた場所だったので、夕暮れと日が沈んでからの写真しかない。暗いが、独特な海岸線の形で場所がわかったのだろう。
「あるよ。昼間だけだけどね。最後に行ったのはもう少し涼しい時期だったから、風が気持ちよかったなあ。これ、三脚を使って撮ったの?」
「うん。部の備品を借りた」
「暗いから三脚がないとね。そういえば、家のアルバムにここの写真があるかも。見たことある?」
「いや。今度探してみる」
「見つけたら持ってきて」
「うん」
母は窓の外に目を向けた。夕日が右側から差し込んでいる。やがて、外を見たまま、
「マジックアワーって知ってる?」
と聞いた。
「知ってる。日没から真っ暗になるまでの時間でしょ」
「そう。一日のうちのたった数十分のこと。空も町もだんだんと色を失っていく、幻想的な時間」
夕日が山の向こうに沈んでいった。
「光が少ないからそう感じるのかな。それとも、すぐに終わってしまうから美しいのかな」
こたえを求めていないような問いかけだった。彼女も、四角い窓から外を見た。
「もうすぐ見られるよ。私はここからの眺めも好きだな」
母は彼女を振り向いて言った。
外が暗くなり始め、影が見えなくなり、ものの輪郭が曖昧になっていった。
ポジフィルム:リバーサルフィルムともいう。ネガフィルムは現像したときにフィルムに色が着いておらず、明暗が反転しているのに対し、ポジフィルムは現像した段階でフィルムが撮った時の色になる。スライドは、小さな写真が並んでいるようである。
ネガフィルムと比べてポジフィルムは露出の適正範囲が狭いため、白飛び黒飛びしやすい。そして、フィルム自体も現像代も高い。