一
階段で五階まで上ってきたとき、その部屋の扉が開いているのが見えた。検温の時間は過ぎているはずなので、掃除でもしているのだろうかと思い、しばらく様子をうかがうことにした。
廊下の、部屋の中が見えない場所で立ち止まり、窓から中庭を見おろした。向かいの棟の手前に桜が何本か並んでいる。つい先日、同じ場所から葉桜を眺めた。その桜の木々は、今は新緑の葉に覆われている。
開いていた扉から知った顔の看護師さんが出てきて、扉を閉めた。面会時間は始まっているが、なにか用事があったのだろうか。と、彼女は思った。
看護師さんが出てきた部屋の扉をノックした。「どうぞー」という朗らかな声を聞いて、彼女は扉を横に開いた。
白いベッドに座っている母が笑顔で出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
「自分の家だと思ってくつろいでくれたまえ」
「自分の家とは思えないけど、くつろぐよ」
彼女はベッドの脇に置かれている椅子に座った。座ると、正面の窓から外が見える。近くに大きな建物がないので見晴らしがいい。
「これ、面白かったから一気に読んじゃったよ」
母は、枕頭台の写真立ての横に置いてある本を取って、彼女に差し出した。
「もう読んだの。ちゃんと寝てる?」
「大丈夫だって」
「ホントかなあ」
そう言いつつも、彼女は本を受け取って、代わりに鞄から出した本を母に渡した。
「ありがとう。いつも面白い本を選んでくれるから楽しみだよ」
「褒めたって、本しか出ないよ」
「可愛い一人娘の、少し照れた顔が見られる」
どちらが子供だかわからないようなことを言う。と彼女は思った。その態度は根っからのものなのか、それとも心配をかけまいとしてわざとそうしているのか、彼女にはわからない。何年もずっと、この調子だった。
「学校にはもう慣れた?」
写真立ての横に本をおいてから、母が聞いた。写真立てには鈴蘭の花の写真が入れてある。
「うん。時間割も高校より楽だし」
「毎日朝から夕方まで授業があるわけじゃないんだよね」
「そう。春学期は一般教養が多いけど」
「入り口はとっつきづらいって思うかもしれないけど、知っていくうちに面白くなるよ」
「そういうものかな」
母はベッドの横の台に乗っている時計に目をやってから、思い出したように、
「そういえば、サークルとか部活には入ったの?」
と聞いた。
「入ったよ。写真部」
彼女は、少し逡巡してからこたえた。
それを聞いて、母は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑に変わった。
「自分のために時間を使っていいんだよ」
言い聞かせるように、母が言った。少しさみしそうな顔に見えた。
「買いかぶりすぎ。私はやりたいことをしてるよ」
「でも、写真は、私がカメラをあげたからでしょ」
「きっかけはそうだよ。でも、続けてるのも、写真部に入ったのも私の意志」
母は娘の顔を見つめた。
「そっか」
納得したわけではないだろう。何を言っても揺るがないということがわかったのだろうと思う。
「でも、入学から少し時間が経ってから入ったってことは、……男か。口説かれちゃったか」
「違うよ。写真部に誘ったのは私の方だし」
焦って言ってから、失言に気づいた。
番外編のような話なので、珍しくあらすじをまともに書こうと思いましたが、前書きみたいな内容になってしまいました。