人の、そしてわたしの願い
一陣の風が、通り抜けた。
わたしたちはなすがままに揺られ、かさかさと葉の音をたてた。
まだ寒々しい風の吹くなか、1人の少女がわたしたちの間を歩いていった。まるで先の風のように、あっさりと過ぎていった。
ただ、張り詰めたような表情が、少し悲しかった。
今日もとても多くの人たちが、この場所で楽しんでいる。
ベンチに腰をかけ談笑している男女、ボールを投げ合ってはしゃぐ子供、芝生にシートを敷いてその様子を嬉しそうに眺めている両親。ここから見渡せば、あたりに人々の存在が確かに感じられた。
そしてそのはるか向こうには、海があった。後ろには山がそびえている。山は川を経て、海へと繋がっている。そこにはごく普通の自然の摂理があった。
そう、あったのだ。
…………いつからだろうか。摂理に反し、この場所に人が溢れ出したのは。
以前はもっといろいろな木がいて、さまざまな命を支えていたものだった。
それが月日が経つに連れて、川はせばまり、山はけずられ、そして人が増えた。過去には仲間たちが溢れていたのに、今では相反するように消えてしまった。
しかし鬱蒼としたあのころに比べれば、格段に綺麗にはなった。人に整理され、幾何学的にそろえられている。
ごみが文字通りに溢れたころもあったが、それも過去となっていた。
いささか感傷的になってそんなことを考えていると、通り過ぎる人たちのなかで立ち止まる少年がいた。
少年はわたしを見上げ、その目は大きく見開かれていた。
「ヨウスケ、どうしたの?」
後ろから現れた女性に、ヨウスケは振り返った。
「あ、おかあさん……この木、おっきいね」
「そうね……こんなにおっきいと、いろんなものを見てきたんでしょうね……」
ヨウスケの母親は、感慨深げにわたしを仰いだ。そのさまがヨウスケと似ていて、わたしは笑ってしまいそうだった。
「あ……そうだったわ、お父さんが呼んでたわよ」
「お父さんが?」
「ええ。まだ引っ越してきて間もないから、迷ったりしちゃいけないでしょ? この公園に来るのも初めてなんだし、あまり遠くへ行っちゃダメよ?」
「うん、わかったよ」
2人はそう言うと振り返り、父親のいるであろう場所へと戻っていった。
また、この場所に1つの家族が増えたということか。
わたしは彼らが良き道を進めるよう、天に祈った。
ある雨の夜、いつかの少女があのときと同じように山のあるほうから歩いてきた。こんな夜更けだから、少女のほかには誰もいない。
彼女はかたわらのベンチに腰を据えると、しばらくうつむいていた。傘もささずにぬれているからか、雨のしみこんだベンチを気にするふうでもなかった。
わたしが彼女の様子をうかがっていると、少女は静かに泣き始めた。
わたしは人と心を交わせないことに、もどかしくなっていた。悲しんでいるのはわかるのに、なにもすることができない。わたしは長く生きてきたが、それがなんになろうか。か弱い少女の涙すらとめられず、ただこうして立っていることしかできないのか。
わたしは天を仰ぎ、神に向けてはかなく思った。どうしてわたしをこの世に生んだのだ、と。
雨はわたしを打ちつづけ、風が舞った。天からの応えはなく、わたしは項垂れた。
少女はまだ泣いていたが、しばらくすると落ち着いたのか、立ち上がった。
彼女は一度だけこちらを見ると、消えるように通り過ぎていった。
少女が仰いだのは、わたしだったのか、それともその先の空だったのか。わたしにわかったのは、雨に打たれる彼女の顔には悲しみが宿っているということだけだった。
ヨウスケが友人たちと芝生のうえを駆け回っている。彼の笑顔には蔓延性があるらしく、見ているだけでわたしも嬉しくなってくる。ボールを持った友達に追われ、ヨウスケは逃げ回る。その友達がボールを投げると、軽やかにヨウスケは身をひるがえした。ボールは弧を描き、わたしに当たって弾かれた。
そのボールが転がっていく先には、あの悲しげな少女が歩いていた。
「ごめーん、ボールとって!」
ヨウスケの叫び声に気づき、少女はボールに目をやる。
しかしボールを取ることはなく、ヨウスケを無視して少女は去っていった。
「あ、ボール……」
「やめとけよ、ヨウスケ。あいつ、いつもあんな感じだから、誰も遊びたがらないんだ」
「そうなの?」
訊ねるヨウスケに、別の友だちが答える。
「オレも聞いたことある。お父さんがテレビに出てる人らしいんだけどさ、あんまりイイ人じゃないんだって。だからお母さんが、あの子とは遊ぶなって言ってたよ」
「ふ〜ん……」
ヨウスケは少女の背中を見つめて、口を少しだけとがらせていた。
陽が傾き始め、街は紅く染まり出す。
「じゃ、また明日な!」
「うん、また明日!」
友達が手を振るのと同じように、ヨウスケも手を振った。
人がまばらとなっても、ヨウスケは帰ろうとはせずに、1人でベンチに座っていた。
陽は沈み、街灯がともり始めると、ヨウスケは立ち上がった。
帰るのかと思ったが、彼はゆっくりとわたしに近づいてきた。
「…………」
だまって見上げ、そしてわたしに抱きついた。
「やっぱり、おっきいや」
ヨウスケの小さな腕では、わたしの幹をくるむことなどできるはずもなく、ただ張り付いているようにしか見えなかった。ただ小さい彼だったけれど、その胸から伝わるトクン、トクンという確かな音は、しっかりとわたしに届いていた。
ゆっくりとヨウスケがわたしから離れ、そしてまたわたしを見上げた。
そのヨウスケの目線が、ふとそれた。その視線の向こうには、あの少女がいた。
彼女はヨウスケに気づくことなく、いつもと同じくうつむいたままゆっくりと歩いていた。
少しずつだが確実に少女はヨウスケに近づいていき、そしてわたしのもとを過ぎようとしたときに、やっとヨウスケに気づいた。
「あの…………」
「…………」
ヨウスケは口を開いたものの、あとの言葉がつながらないらしく、もごもごと口のなかで遊んでいるだけだった。
少女はおぼろげな目で待っていたが、すぐにヨウスケを無視して去ろうとした。
「あの、友だちになって!」
ヨウスケが声を上げると、少女はゆっくりと振り返った。ヨウスケはプロポーズでもするかのように、さっと腕を上げた。少女は目をぱっちりと見開いてしばらくその手を見つめ、ゆっくりと腕だけでヨウスケの手をにぎった。
ヨウスケは嬉しそうに顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「ぼくさ、最近こっちに引っ越してきたんだ」
「……」
「あ、そうだ。さっきボクがボール取ってって言ったの、覚えてる?」
「…………うん」
「あ、ホント? よかった、覚えてたんだ……」
ベンチに並び、楽しそうに2人は言葉を交わしていた。ほとんどヨウスケがしゃべっていたが、少女の顔はいつもよりほのかにほころんでいた。
「あ、そうだ。ボク、ヨウスケ。キミは?」
「……………………ヨウコ」
「ホント! ボクと似てるね! ねぇねぇ、ヨウってどんな字? ボクはね、太陽のヨウなんだ。お父さんがつけてくれたんだけどね…………そうだ!」
ヨウスケは足元に落ちていた棒を取ると、わたしのもとへ駆け寄って字を書き始めた。
『陽祐』
逆さまでよみづらかったが、そう書かれていた。
「太陽みたいなつよさと人をたすけられる優しさをもつように、だって。ヨウコちゃんは?」
ヨウコは少し戸惑いながらも、差し出された棒を受け取り、陽祐の書いた字の横に名を連ねた。
『葉子』
「へ〜、どういう意味なの?」
「……わからない」
「わからないの? じゃ、お父さんにつけてもらったの? お母さんにつけてもらったの?」
「…………」
葉子は悲しそうにうつむき、地面から目をそらした。
「お母さんはいないの」
「え……」
陽祐は不意をつかれたようにつぶやいた。
「お母さんは、わたしが生まれてすぐに出て行っちゃった」
「……そう、なんだ…………」
小さく言うと、陽祐も葉子と同じようにうつむいてしまう。
「……ボクさ、家が近いからよくここに来るんだけど、葉子ちゃんはここによく来るの?」
こもった雰囲気を払うように、陽祐が顔を上げて訊ねる。葉子もゆっくりと顔を上げ、そしてうなずいた。
「……うん。おけいこのときに通る道だから」
「そっか。じゃ、これからは声をかけてね!」
「…………うん」
葉子は小さくゆっくりと、しかし確かにうなずいた。
「よかった……」
「そろそろ……わたし、帰るね」
「あ、そうだよね。もう遅いもんね」
「じゃ、こっちだから」
葉子は指差した先には、静かに流れる川があった。
「そっか。ボクはこっちだから反対だね」
陽祐は山を指し、葉子に微笑んだ。
「うん」
「じゃ、また明日ね!」
陽祐は手を振り、葉子の背が小さくなっていくのを見つめていた。
葉子が見えなくなると、陽祐は笑ったまま葉子とは逆のほうへとスキップして行った。
「葉子ちゃん!」
「……」
陽祐が走って寄ってくると、葉子は軽く笑みをこぼした。一瞬だけ口を開いたのは、陽祐の名を呼ぼうとしたからだろうか。しかし彼女は呼ばなかった。
「昨日もこれぐらいの時間に来たから、今日も来るかな、って思って待ってたんだ」
はにかんで陽祐が微笑むと、葉子がちょっとだけ悲しそうな顔をした。
「ごめん。これからおけいこだから……」
しかし陽祐は笑って、葉子に応える。
「あ、そっか。終わるのはいつ?」
「えっと……4時間ぐらい後、かな」
「そんなに!?」
陽祐の驚きの声に、葉子まで驚いてしまう。
「う、うん」
「そっか……ま、いいや。ボク、その時間まで待ってるから、また後で声かけてね」
「え、でも、暗くなってるよ。おけいこ終わったら……」
「いいのいいの。じゃ、おけいこ、がんばってね」
「……うん」
陽祐が手を振ると葉子も手を振り、そして葉子は去っていった。
その姿が消えるまで陽祐が手を振っていると、芝生のうえから様子を見ていた友達が寄ってくる。
「おい、あの子に声かけたのか?」
「うん。昨日、友だちになった」
「え……大丈夫だったのか?」
「大丈夫って? いいコだよ、葉子ちゃん」
「なにも、されなかった?」
「あたりまえじゃない」
「……ホントに、いいコ?」
いぶかしげに訊ねるその友だちに、陽祐は力強くうなずいた。
「うん!」
その日、稽古を終わらせた葉子を迎えたのは、陽祐とその友だちだった。
葉子は驚いていたが、3人でひとしきり話して笑っていた。
葉子が稽古に通う時間は相当のようで、ほぼ毎日2人は会っていた。
それからいくらかの時間が流れ、陽はつよく照りつけるようになった。その光を受けて、わたしたちは厚い葉をつけ、実をみのらせる準備をしていた。
そして時間と共に、陽祐の周りには人が集まり始めていた。天性の才というか、彼は人に好かれやすかった。
そして彼を通して、葉子にも友人ができた。彼女の笑みを見て、陽祐も嬉しそうに微笑んでいた。
さらに季節は過ぎ、太陽は傾き、葉は色褪せ始める。
そして、時は残酷だった。
葉子のもとから、1人、2人、と友達が離れていった。
「ごめんね。お母さんが、葉子ちゃんとは遊んじゃダメって」
「葉子のお父さんって、とってもこわい人なんだってね」
「ヨウちゃんと遊ぶと、ユウカちゃんが遊んでくれないって言うから……」
「…………キライ!」
「ごめん、これからは遊べないんだ。あ、お母さんが呼んでるから。じゃあ、ばいばい」
「用事ができちゃったから、これからは遊べないよ」
「ごめんなさい、あなたと息子をあまり遊ばせたくないの。これからは、声をかけたりしないで」
友達ができて喜んでいた葉子に、沢山の絶縁の言葉が浴びせられた。それでもやはり、わたしには見ていることしかできなかった。
葉子は涙を流し続けた。それを見て、何も言えずに帰る友達もいれば、追い討ちをかけるかのように叫んで逃げる子供もいた。
「かわいそうにね」
「親が離婚したのも、父親が飲んで暴力をふるうせいなんですって」
「ほんと、親で子供って決まるらしいから」
「ダメな親を持った不幸かしら」
「あら、そんなこと思うんだったら、あなたのとこはあの子と遊ばせてあげてるの?」
「まさか! そんな自殺行為、娘にさせられるワケないじゃない!」
「そうよね、アハハハハ!」
「あはは!」
不幸。
人よりも長く生きてきたが、この言葉がまったくわからない。
幸福、そして不幸。
この言葉に一喜一憂し、人は生きている。いや、そう言えば『おれは不幸だ!』と言って、川に入水しようとした人がいると、噂で聞いたことがある。
それにこの場で別れた男女をいくつも見てきたが、ときにはお互いの感情が冷め、『幸福』ではないからと決別し、またときには親の反対を振り切れず、『不幸』にならぬようにと離縁したりする。
……なんだと言うのだ。その定義を理解できないわたしが愚かなのか。それとも神が人間にのみ与えた理解の深さなのか。
わたしは時々、疲れてしまう。長く生き過ぎたせいか、人と生きてきたせいか、照る陽のなかの少しの風に、寒さを覚えてしまうのだ。
怒りとも絶望ともわからない感情を思っていると、ふといつかのようにわたしに抱きつく人がいた。
「……………………」
いつの間にか暗くなったなかに、泣き腫らした目をした葉子がわたしにしがみついている。
彼女の胸からは、陽祐と似た、けれどもどこか優しいリズムが響いていた。
「葉子ちゃん!」
葉子が振り返ると、陽祐が立っていた。走ってきたのだろうか、額に汗をにじませ荒い呼吸に肩をゆらしている。
「待って!」
逃げようとする葉子を、腕を取って止める。
「……ごめん。ボクが余計なことしなかったら……」
「…………」
葉子は口をつぐんだまま、陽祐と目を合わせずに伏せていた。
「でも、ボクは葉子ちゃんを見捨てたりしな……」
「やめて!」
陽祐の手を振りほどき、葉子が叫んだ。
「そんなこと言ったって……誰だってそうよ。始めは優しくても、結局はみんないなくなる。ユウカちゃんもサトシくんもケンジくんもユキコちゃんも、陽祐くんもお母さんも!」
闇のなかに怒号がするどく響く。葉子の震える肩は、泣いているからだろうか。
「そんなことないよ」
陽祐がつぶやいた。葉子がゆっくりと振り返ると、にこっと、葉子と出逢ったころとたがわぬ笑顔を見せた。
「ボクは、葉子ちゃんの友だちだもん」
その言葉に、葉子は堰を切ったように泣き出した。ふわっと空から風が舞い、2人へと降りた。 わたしたちも揺れ、かさかさと優しく奏でた。
「葉子ちゃん!」
「陽祐くん」
いつものように、陽祐が葉子のもとに走っていく。葉子は笑顔で陽祐の名前を呼ぶようになっていた。
[今日もおけいこ?」
「うん、そうなの」
「あんまりムリしちゃだめだよ。葉子ちゃんと遊べなくなっちゃうの、ヤダからね」
「……うん、わかった」
「じゃ、また後でね」
「じゃあね!」
2人は短い会話を終わらせると、お互いの場所に向かった。
「ヨウスケ、まだヨウコと遊んでんの?」
陽祐が友人たちのもとに戻ると、その中の1人が言った。
「うん、そうだけど。それがどうかした?」
「よくお母さんに怒られないな」
「そうだよな」
陽祐は首を傾げていたが、遊び出すとそのことも忘れたようだった。
そしてまた幾許かの時間が移り、日が短くなって寒さの増した夜。2人はベンチに座っていた。
「どうしたの、葉子ちゃん? 悲しい顔しちゃって」
厚着をして、ちょこんと座る陽祐が優しく訊ねる。
「うん……」
「今日、待ってたんだよ? なんか用事でもあったの?」
その日、稽古に行く葉子を見送ろうと待っていた陽祐だったが、葉子は現れなかった。それでも帰りの時間まで待っていると、うつむいた葉子が陽祐を見て驚いたのだった。
うつむき葉子は黙っている。
「……今日ね、お母さんと話した。お母さんと、葉子ちゃんのこと話したんだ」
その言葉に、葉子の動きがぴたりと止む。
「お母さんが『楽しい?』って聞いたから、ボクは『とっても!』って言ったんだ。そしたら、お母さんね、とってもうれしそうな顔してくれた」
葉子が顔を上げると、陽祐はまたにっこりと笑った。いつもはそれに笑い返す葉子だったが、今回は違っていた。
「わたし、引っ越すの」
葉子はうつむいたまま言った。
「……引っ、越す?」
「…………」
黙ってうなずく葉子。葉子は見ようとしないが、陽祐の顔は驚きに満ちていた。
「お父さんが会社でうまくいってないから、別のところにいってはたらくんだって」
「…………」
今度は陽祐が言葉を失って黙ってしまう。
「だから、それについていかなきゃいけないの……」
その言葉を最後に、2人は黙ってしまった。
結局、帰宅するときも、葉子が黙って手を振るのに応えて、陽祐が小さく手を振るだけだった。
厚い厚い雲に覆われ、雪が降っていた。
「もう、明日だね」
「うん……」
2人とも顔を合わせず、目をそらしたり中空に漂わせたりしている。
「でも、これでもギリギリまで伸ばしてもらったんだよ」
「……うん」
「あしたの夜、車で行くんだって」
「そっか……」
「あ……もう、わたし行かないと。おけいこの先生にお別れ言わなきゃいけないの」
「……わかった、じゃあね…………」
「うん、じゃあね」
2人は会話をなおざりにすると、お互い見送ることなく別れた。
そして――
別れの日が訪れた。
葉子のほうで色々と準備があったらしく、別れは夜になった。
雪は空で溶け、そっとみぞれに変わっていた。
冷たい夜のなか、傘をさしてたたずむ2人。
その後ろでは、発つための車を止めて葉子の父親が立っていた。
わたしが葉子の父を見るのは初めてだったが、思いのほか紳士であるように見えた。
「もう、お別れだね……」
沈黙を破ったのは、意外にも葉子だった。葉子は何気ない顔で、小さくつぶやいた。
「わたしたち、違う小学校だったし、本当ならお友達にもなれなかったのかもしれないけど……でも、お友だちになれてよかったね」
葉子が笑顔を陽祐に向ける。
「いろんなことがあったけど、陽祐くんには『ありがとう』って言えるよ。一緒にいて、わたし、楽しかった」
いつも陽祐がするように、にっこりと笑う葉子。
「これでお別れだけど、でもわたしは幸せだよ。だって、『こうかい』してないもん」
笑うことのできないわたしにもわかるような、つくった笑顔。そんな心が愴むような笑顔は、初めてだった。
「…………そんなこと、言うなよ」
「え?」
か細い声に、葉子は首を傾げる。
「そんなこと言うなよ!!」
「よ、陽祐くん……」
陽祐の怒鳴り声は冴え渡り、葉子の父は顔をしかめた。
雷鳴が轟き始めていた。
「そんな、わけのわかんないこと言うなよ! 思ってもないんだろ、そんなこと!? 思ってもないことなんて言うなよ!」
「…………」
陽祐の怒りに、葉子は小さくなる。その小さくなった肩を、陽祐は抱きしめた。その様を見て、ゆっくりと葉子の父親が2人のもとへと歩み寄る。
「よくわかんないけど、ボクは葉子ちゃんのコトが『好き』だ。ずっと一緒にいたい」
「よ、陽祐くん……?」
「いつも葉子ちゃんと別れるときだって、ボクはもっと一緒にいたかった。少しでも長くいたかった!」
「陽祐くん、苦しいよ……」
そのとき、わたしは初めて陽祐の涙を見た。悔しそうな涙を見て、葉子も泣いていた。
みぞれは勢いを増し、雷鳴が暴れている。
しかし。
「もういいだろう。そろそろ時間だ」
あまりにもたやすく2人を間を裂き、否応を言わせぬ力で葉子の手を引く。
「待てよ!」
陽祐が父親につかみかかるが、大人と子供では力が違いすぎる。陽祐はあっけなく弾かれた。
「わあぁぁ!」
それでも陽祐は、刃向かい続ける。
わたしは、自分に適うことをした。天を仰ぎ、神に祈った。2人のなかを裂かんとする神に。
そのとき、雲間が光った。
そしてわたしはひどい痛苦に意識を閉ざした。
目を覚ましたとき、あたりには人だかりができていた。
わたしが痛みに歪む意識で見下ろすと、わたしの半身が倒れていた。その下には、つぶれた車があった。
人々の噂で、雷がわたしに落ちたことを知った。樹木医がわたしを訪れ、いろいろと調べていった。
噂に耳を傾けていたが、陽祐と葉子についてわかったことは、葉子の父親が酒乱というのはただのデマということぐらいだった。
葉子の父は銀行員だったが時代の流れに逆らえず、仕事が思わしくない状況だった。焦る彼は、家庭を顧みずに仕事に打ち込み、呆れた妻――葉子の母親――から離縁を申し込む。疲れた母親は、育てる気力をなくして葉子を父親に押し付ける。父親は、相変わらず仕事に専念し続ける。
これが噂好きの人々から聞いたものだった。
そして雲などない珍しく晴れたある日。
陽祐と葉子が2人して現れた。
「ほんとに、お別れなんだね……」
「そう、だね……」
わたしの願いは届かず、2人はいま裂かれようとしているのか。
「でも、最後にいろいろ話せてよかった」
「ボクも、そう思うよ」
「『こうかい』がない、なんてウソ言ってごめんね」
「ううん、いいよ。ウソってさ、言われてイヤだからイヤなものでしょ? でも、ボクがさみしくないように、ってついたウソだったら、ボクはイヤじゃないもん」
「……ありがとう」
2人は笑顔をつき合せた。最後の笑顔だというのに、本当に『幸せ』そうだった。
「……じゃあね」
「……じゃあね」
本当の別れの言葉をつぶやくと、同時に背を向け、歩き始めた。そして葉子の歩くさきには、彼女の父がいた。
わたしの願いも無駄ではなかったと、そう思っていいのだろうか。
『少しでも長く……』
今、わたしはそう願っている。1つ願いが叶ったからかもしれない。わたしの命がもう長くないからかもしれない。
人は、人を貪欲と言う。
それは、飽くなき願いを抱えている、とも言える。
どうであれ、わたしは願う。
少しでも長く……
Fin.