前編
2月のメインイベントとして挙げられるものの1つに、『バレンタインデー』があります。2月14日、恋人や友達を愛する女性が自分の気持ちをたっぷりこめたチョコレートをプレゼントする、と言う行事です。半世紀前、どこかの日本の企業が宣伝で取り上げたことがきっかけとなってあっという間に日本中に広まった、と言う話もありますが、今やすっかり冬の風物詩として定着しているようです。
ですがこの行事は、日本中の人々に公平に嬉しさをもたらすと言う訳ではありませんでした。ここにいる、『W』と言うサラリーマンがその典型的な例でしょう。
「はぁ……」
今日は2月16日。会社は休日ですが、彼は憂鬱な気分でした。おとといのことを思い出す度に、嫌な気持ちが心の中を包んでしまうのです。
昨日のバレンタインデーで会社で同じ部署に勤めている美形の男性社員は女性社員からチョコレートをたっぷりもらっていた一方、彼の元には一切そういうものは届きませんでした。洒落を決めてみたり仕事を真面目にこなしてみたりと努力をしてきたのに、その成果は実ることはありませんでした。さらに彼を落ち込ませたのは、密かに憧れていた美人社員の『U』まで、彼にチョコレートを用意していなかったということでした。一応いつも通り朗らかな口調で挨拶はしてくれたのですが、2月14日に一番大事なものは最後まで渡してくれなかった、と言う訳です。
一応、家に帰った時に実家の母からチョコレートのお届けものはあったのですが、家族かの義理チョコなので彼にとってはノーカウントでした。同じ職場にいる女性たちからの心がこもったチョコレートでないと、バレンタインデーを楽しめない、そう考えていました。
「……どうすりゃいいんだろ、俺……ちえっ」
もし自分があの美形の社員と同じように、毎年2月14日になるとたくさんチョコを貰い、部署の女性たちにちやほやされたらどんなにいいだろうか。しかし、そのような事を考えると余計に彼の心は沈んでしまいました。来年もまた同じような事態になると思ってしまえば当然でしょう。
そんな考えを忘れるべく散歩に出かけたWの目に、あるものが留まりました。
「……何だ、これ?」
ふらりと立ち寄った駄菓子屋で、今まで見たことの無い変わった名前のチョコレートを見つけたのです。
『バレンタインデーチョコ ~義理チョコしか貰えなかった貴方へ~』
そのチョコレートの箱には、嫌でもWの目を惹いてしまう名前が書かれてありました。幾らなんでも率直過ぎる、と複雑な気持ちになった彼でしたが、せっかく立ち寄ったのにそのまま通り過ぎるのも勿体無い、と考え、先程までの憂鬱な気分を紛らわすための演技担ぎも兼ねて、1つ買っていく事にしました。
「うーん、見た目は普通だな……」
コンビニでもスーパーでも見たことが無い製品と言う事もあり、彼は注意深くチョコの中身や箱を観察しました。
チョコレート自体は楕円形をしたごく普通のアーモンド入りと言う感じで、材料の一覧も普通のチョコとあまり変わらないようでした。しかし一つだけ、彼は気になる欄を見つけました。薬でもサプリメントでもないのに、何故か『使用方法』と言う項目があったのです。
「なになに、1個食べればバレンタインデーに戻って、確実にチョコを貰える事が……!?」
そんな馬鹿な、とWは笑い飛ばしました。大掛かりなタイムマシンのような事が、こんなちんけなアーモンドチョコで起きるはずはない、そう考えたのです。それでも『チョコを貰える』と言う言葉に惹かれてしまった彼は、物は試しと1個だけ食べてみることにしました。
「これで本当に戻ったら、凄いだろうなー」
口に入れたチョコをよく噛み、飲み込んだその時でした。
彼の周りに広がっていた自分の部屋が、突然歪んで見え始めました。渦巻きの中心にいるかのように、周りのものが大きく伸び縮みすると言う異様な状態に、Wは立っていられなくなったのです。そのまま彼は目を強く瞑りながら床にうずくまり――
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「……はっ!?」
――気づいた時、彼の体は朝日を浴びるベッドの中にいました。
先程までずっと午後だったのに、いつの間に太陽は東に移動したのだろうか、と不思議に思いながら時計を見たとき、彼の顔は驚きに包まれました。自分の記憶が確かなら、『今日』は2月16日、地獄のようなバレンタインデーから2日経ったはずです。しかし、何故電波時計は『2月14日』を指しているのでしょうか。
見間違いか、もしかして夢なのか、と思った彼でしたが、携帯電話もパソコンも全て2月14日と言う記述になっており、テレビのニュースも、彼が『昨日』見たはずの内容と全く同じものを放送していました。一応頬もつねってみたのですが、間違いなく頬の痛みを感じました。
これはもしかして、とWが見つめた先には、『昨日』はなかったはずのチョコレート――『バレンタインデーチョコ ~義理チョコしか貰えなかった貴方に~』――がありました。そして、彼は確信しました。今自分が居るのは、間違いなく2月14日のバレンタインデーであるという事と、その日に戻れた理由があのチョコレートにあるという事です。
そして、Wは喜び勇んで会社へ向かいました。何故なら、例のチョコには時間を遡る以外にもう一つ重要な効用があることが記されていたからです。確実に女性からチョコレートを貰うことができる、と。
ですが、会社から戻ってきたWは、非常にがっかりした表情になっていました。
「なんだよ、もう……」
彼のスーツのポケットには、今日――2月14日のバレンタインデーに同僚から貰ったチョコの包み紙がありました。確かに、『女の子からチョコを貰えることが出来る』と言う効用に嘘偽りは無かったようで、同じ部署に勤める女性社員からWにチョコが手渡されたのです。
しかし、彼はその結果に大きく不満を抱えていました。あくまで同僚に贈る義理チョコの類であった、憧れのUからの贈り物では無かったなどの理由がありましたが、一番がっかりさせたのは、そのチョコレートの味が恐ろしく不味いものだったことでした。口の中に輪ゴムを突っ込まれたように、彼は感じていました。
「こんなのなら貰わないほうがマシだ……」
しかし、彼は諦めませんでした。自宅の机の上にある『バレンタインデーチョコ』の箱の中には、まだチョコがいくつも残っています。もう一度2月14日をやり直し、次こそ美味しいチョコレートを貰おう、と考えたのです。
そして、再びチョコをよく噛んで飲み込んだ彼は、3回目の『2月14日の朝』を迎えました。
「よし、今度こそ……!」
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ところが、会社から帰ってきたWは、またもや憂鬱な気持ちになっていました。
確かに今回もチョコを貰うことは出来、前回より遥かに美味しい味でした。しかも今回は1人だけではなく、3人もの同僚の女性社員からチョコを貰うことができたのです。
ですが、問題はその後でした。
「ったく、なんだよあの扱い……」
女性社員にチョコが美味しかったと告げたとき、彼女たちは満面の笑みを浮かべていました。本当に心がこもったチョコレートだったのかもしれない、と言うWの淡い期待は、その直後に裏切られてしまいました。彼が食べたものと同じチョコレートを、彼女たちは美形の社員にも渡していたのです。しかもWに渡されたものとは違い、綺麗な梱包までなされていました。彼女たちにとって、Wは単なる『味見係』だったと言うわけです。
そして今回も、憧れのUからのプレゼントはありませんでした。
こんな理不尽な状況を、彼は受け入れることは出来ませんでした。『三度目の正直』という言葉通りに、今度こそ美味しいチョコレートを貰えるだろう、と考え、またまた彼は『バレンタインデーチョコ』を口に含みました。
――ですが、この時の彼の頭からはある事が抜け落ちていました。
『三度目の正直』以外にも、『二度あることは三度ある』、という言葉もある事を……。