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酔っ払いの礼儀  作者: 岸上ゲソ
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有り余る愛は白旗にこめて

「いちにー、さんよん、ご・・・と、あら?解んなくなっちゃったわ」

 闇に追われた太陽が山際近くに緋色を落とす頃、河川の上を飛ぶ茜色の蜻蛉の姿を見つけた。

 ざっと見て、十は越えると思う。数え出した数は片手の指で足りるだけ数えたけど、ひょうひょうと飛び回る彼等の無垢な姿に何だか馬鹿らしくなり、上げていた指先をだらりと戻した。昔は良く妹のアイリーンと網を片手に蜻蛉や蝉を追い回したものだけど、近頃そんな子供の光景などとんと見なくなったなぁと思う。流行らないだけなのかもしれないが、何だか寂しい。

 立ち止まると、ぴうと吹いた風が川の水面を駆け上がった。水気を含んだ涼風は足元を撫でて、楽しそうに駆け去っていく。世界は濃い赤の祝福に染まって久しい。日が落ちるの早くなったわよねぇと苦笑して、いやこんなことしてる場合じゃないと崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。本当に、私という人間の何かもが嫌になる。私は現在、絶賛自己嫌悪中だった。


***


 可愛い甥っ子がうちに顔を見せたのは、隊長と会わなくなって一週間後の昨日の夕食前の事だった。来客のベルに開けた玄関先に、苦いものと甘いものを一緒に食べたような、何とも言い様のない複雑な顔を浮かべるリールベイが立っていた。来るだろうと思っていたから驚きはしなかったけど、甥っ子の言いたいことは解っていたので私は苦笑して言った。入りなさい、言いたいことがあるんでしょう、と。

 けれど、多めに作っておいた夕食を前にリールの口が呟いた言葉は、私の予想とは異なるものだった。


『隊長が近衛を辞めるって言うんだ』

『はぁ!?』

 私はぎょっとしてスプーンをシチューの中に取り落とし、慌ててリールを見た。

『辞めるって、どうして!』

『解らない。でも、自分に残された救いはもう戦場しか残ってないって言ってて……皆で引き止めてるんだけど、全然駄目で。一週間前までは凄く楽しそうだったのに。マディねぇちゃん付き合ってるんだろ?何か聞いてない?』

『き―――聞いて、ないわ。…その、救いって何?』

『さぁ。それが誰もわからないから困ってるんだ。…彼女にも話さないのか、隊長…』

 落胆に顔を染めるリールからそっと視線を逸らした。

 私は隊長との事をリールに話していなかった。エレノアからリールが私が独り身でいる事を気に病んでいると聞いていたし、隊長との交際を喜ぶ言動をしていたリールに別れたとはいい辛かった。それに言うとしたら別れた理由を聞かれるだろうし、そうしたら必然的に酔ってヤリ捨てした事も話さないといけなくなる。それはほら、リールの保護者としての矜持が。

『辞めて欲しくないんだ、隊長に。隊長は俺の憧れで、本当に凄い人なんだ。強くて格好よくて、でも他の先輩みたいに威張ったり偉そうにしなくて、どんな話でもくだらないなんて流さないでちゃんと聞くんだ。困ってる人も見捨てたりしない。―――辞めて欲しくないんだ』

 涙すら浮かべて、悔しそうな顔で言うリールに、私は胸に罪悪感が過ぎった。まさか私ごときと別れた事が原因ではなかろうとは思うが、優しくしてくれた隊長に酷い言い方をしたのは事実だ。からかわれていただけとは解っているけれど、彼の本意はともかく事実だけ見れば、愛の言葉を罵詈雑言で打ち返した形になる。もっと言い方があったろうに。

 ―――もしかしてあの後、何か打ちのめされる事でもあったのかも。

 ひょっとしたら隊長の救いとやらを粉々にするような事の発端に、欠片でも私がなってしまったのではないだろうか。悪い事というのは重なるものじゃないか。

『マディねぇちゃん、隊長に何があったのか聞いてよ。お願いだから』

 だから、リールの涙目の懇願に思わず頷いたのは、そんな罪悪感によるものだった。


***


 さわわ、と緋色を浴びた雑草たちが騒ぎ、私は自嘲気味に目を閉じてそのささやかな声に聞き入った。刻々と移り行く空の宴は嘆きと歓喜を繰り返し、やがて世界は闇の帳がおりる頃を迎える。

 どうしよう。

 この先の角を曲がれば軍施設に着く。こんなところでしゃがみ込んでいても何の解決にもならないのは解っているけれど、正直どんな顔して会えばいいのか解らない。もう会わないと言ったのはそもそも自分なのに。というかこんな無礼な女、会ってくれるかも解らない。

 ―――どうしよう。

「・・・さむっ」

 ふい、と風が吹いて首をすくめた。

 川から駆け抜けた風が襟ぐりの開いた服から伸びる首筋を撫で、浮いた汗が気化し鳥肌を残した。川風は随分と意地悪だなと思い、体を軽くちぢ込ませる。――馬鹿みたいと笑った。

(だいたい会ってどうするのよ。そもそも私なんか彼の進退と何の関係も無いかもしれないじゃない。口も上手くないのに何かを聞き出すなんて無理だし)

 でも。

『マディ。私のメシア』

 救世主と。そう言われた事が引っかかっている。隊長は嘘は言わないと言っていた。だとしたら、それが嘘ではないとしたら、私は彼の、何を救ったというのだろう。

「…から、お前はどうしてそんなに頑ななんだよ」

「煩い、もう決めた事だと言っている」

 軍施設の有る角のほうから男の話し声が聞こえ、慌てて立ち上がる。やばい、どうしよう。これ多分軍人だ。か、隠れる場所は。キョロキョロ見回すが何もない。見渡す限り川しかない。

(川に飛び込めと!?いやいやムリムリムリ!)

ぶるぶるぶると首をふって他を探すが、声はどんどん近付いてくる。

「上には既に話している。近々辞令があるだろう」

「だから何故だ!理由を聞いているんだ、クレス!」

 ―――そいやぁあああ!!

 その名を聞いた瞬間私は川の柵を飛び越え、そのまま川へダイブした。隠れよう、それだけの思いで躊躇いは無かった。けれどダイブしながら、こんな勢い良く行ったら水しぶきしこたま出るんじゃないかと気付いた。

 そして案の定、どばーんと派手な音と水しぶきが上がり、角を曲がってやってきた軍人二人がこちらに走ってくるのが見えた。私は思ったより深かった川に慌て、それでもまだ隠れようとじたばたもがく。

「ちょ、え、…女性!?落ちたのか!?おぼれてるぞおい!」

「見れば解る!―――大丈夫か!今助ける!」

 聞き覚えの有る低い声がそう言うのを聞くや、私は筋肉を総動員して全力でクロールを始めた。逃げる、こうなったら死ぬ気で逃げる。

「なっ!待てあれ溺れてなくね!?泳いでね!?クレス、あの子クロールで泳ぎ始めたぞって待てお前も!」

 焦った声に重なるように背後でばしゃん、とまた激しい水音が聞こえ、私は思わず来やがったぁあと叫んで口をあけた。当然がぼがぼと水が入り、呼吸ができなくなる。服が足にまとわりつき、思わず苦しさで目を閉じる。映像がざぁっと流れ出す。お父さん。お母さん。アイリーン。

 暖かいものに腕を掴まれた。エレノア。リールベイ。引っ張られる。声が聞こえる。

「マディ!」

 ―――クレス様。

 澄んだ湖畔のような瞳、輝くような淡い金髪。映像が現実に切り替わる。霞む視界に焦ったずぶ触れの隊長が見えた。

 ざば、と川から引っ張り出された途端、凄まじい勢いで咳き込んで、私の口から川の水が流れ出た。うわ気管支に入ったきっついなこれ、とゲホゴホしながら四つん這いで蹲る。背中を暖かい手がさするのを感じながら、とにかく咳き込んで水を出した。隠れるだけのつもりがもう少しで溺死するところだった。どう贔屓目に見ても川への飛び降り自殺だこれ。

「大丈夫か?」

「だ、い…ッ」

 何とか声を返そうとしたが耐えられず咳き込むと、慌てなくていいと低い声に告げられる。上のほうから、大丈夫かー、と先程の軍人の声がした。

「生きてるみたいだな、どうする、医者呼ぶか?」

「いや、大丈夫だ。――ラルフ、悪いが私の部屋からタオルを持ってきてくれるか」

「解った。すぐ戻るから待ってろ」

 ちらりと見上げた先で、赤い髪の男が柵から姿を消すのが見えた。荒かった呼吸もさすられる手に宥められる様に落ち着いていく。

「マディ」

 ぽたぽたと髪から雫が落ち、私はそれを見ながらはい、と小さく答えた。

「…どうして、ここに?」

 躊躇いがちにそう訊かれ、そっと溜め息を落とした。川の上で、あははは、と子供たちが走る音が聞こえる。がさがさと鳴る周囲に茂る葉たちが煽られ、つんと青臭い草の香りが鼻に触れた。私、と呟いた声は掠れ、馬鹿みたいに小さい。

「…謝りたくて」

「謝る?何をだ」

「酷い事を、言って。―――ごめんなさい」

 いつの間にか藍に染まった周囲、既に落ち着いている川面の波に夜空が映る。

 静かだった。降りた沈黙に気まずくなる。

「マディ」

「は、はい」

「解らないんだが―――私は、君に嫌われているのだろう?」

「え!?」

 驚いて顔を上げた先に、困惑を滲ませた隊長が居た。さわさわと涼やかな日暮れ風が通り抜け、ひやりと体を冷やす。

「ち、違います。嫌ってなんかいません!」

「しかし、嫌いだから受け入れてくれなかったのだろう?私はマディを愛していると言った。我がメシア、可愛い人と。態度でもそのように示したつもりだ」

「そ、それは」

「その返答がノーだった。それだけだろう。謝る事は無い。むしろ嫌われている事も気付かず側にいようとした私が謝らねばならない」

「―――違います!!」

 すまなかった、と頭を下げようとする隊長に、私は思わず立ち上がって叫んだ。自分の言葉がこんなふうに解釈されていたとは思わなかった。忘れていた、この人が斜め上の、いや常人からはるか上空に位置する感性を持っていた事を。

「私が言ったのは!私みたいな阿婆擦れなんかを相手にすべきじゃないって事です!酔いに任せてやっただけの安い女なのに、愛なんて囁く必要ないって事を言ったんです!」

「しかし、私はそんな事を一度も思ったことが無い。言っただろうマディ、私は嘘はつかない」

「そんなの!」

「思ったことしか言わない。思ってもいないことは口にしない」

「でもっ」

「マディ」

 怖いくらい真っ直ぐに、私以外のものを映していない瞳が強く輝く。

「私は、嘘は言わない。決して」

 さわさわ、さわわ。

 風が吹き、冷えた風が濡れた体をひんやりと撫でて行った。周りの草が一斉に揺れ動き、目に見えない風の通り道を形として残していた。世界はすっかり夜に闇に馴染んでいる。だって、と呻いた。だって。

「だって、おかしいじゃない。私もあなたもただの…ただの酔っ払い同士の過ちだったのよ?酔いに任せてやっただけの女だったでしょう、私。そんなのに恋なんてどうやったらできるの?おかしいわよ!ただやる相手が欲しいって言われた方がまだ現実的じゃない!」

「否定はしない」

 隊長のはっきりした肯定に、ほらみたことかと思うのに胸が抉るように痛んだ。咄嗟に笑ってやろうとして、「だが」と続いた言葉に口を噤む。

「それはマディだからだ。君だから、欲しいと思ったんだ、マディ。私のメシア」

 救世主(メシア)

 それを何度も耳にした。意味が解らなかった、それ。

「マディ。酒を飲むと記憶が飛ぶんだったな。あの日私が何故自棄酒をしていたかもう一度話そう。―――私は不能なんだ、マディ。君以外の人間には一ミリも勃たないんだよ。私が何の肩書きもないただのクレメンスという男になれるのは、マディの前でだけなんだ。解るか?比喩でなく、君以外を私は抱けない。君以外に反応しない。……もしかするとこれは恋や愛より余程性質が悪いかもしれないが」

 そんなことを言いながら、私を見る隊長の目はぎらぎらと獣のように光っていた。水で濡れ、べったりと服が張り付いた私の体を舐めるように見る。彼自身はその場から少しも動いていないのに、まるで押さえ付けられたように体の自由がきかない。

「なぁマディ、勃たないということが男にとってどれ程屈辱で絶望的であるか解るか?たかがその程度と思うな、それだけで己の存在価値が失われたような気になるほど自信を奪う。それを取り戻そうとみっともないくらいにあがき、だがどうにもならず絶望し、疲れ、諦めたそれを。それを君は」

 ぎらついていた瞳が揺れて、哀しみとも喜びともつかない複雑な色が混じった。なにも言えず呆然と見ている私の手を、隊長の手がそうっと、壊れ物でも扱うように握った。デートの別れ際の、あの時のように。

「マディ。酔いに任せてやったのは否定しない。やる相手というのも事実だろう。だけどそれだけじゃない。私にとって君は救いだった。希望だった。そして君という人を知れば知るほどもっと欲しくなった。体だけでなく、心もすべて」

 嘘ばかり、意味が解らないわと、そう一笑に付してしまえばよかった。でも、どうしてもいえない。隊長の目が、とても嘘を言うようにはどうしてもどうやっても思えない。

「し、んじ、られない」

「嘘は言わない。信じられないなら信じるまで言おう。君が私を嫌っていないのなら、君が疑うこともできないくらいに身はもとよりこの心すべて捧げる」

「だって、だっ、て―――」

 捕まれた手が、震えた。私を見る瞳は澄んだ湖畔のような色なのに、そこにこもる熱は火傷しそうなほど熱くて、あまりに一途で。

「私……」

「マディ」

 ぐいと引き寄せられた。力なんか入らなかった。冷えた体が逞しい隊長のものに強く抱かれ、飲み込まれる。私の猜疑心も歪んだ性根も何もかも、飲み込まれ、隊長だけになってしまった。マディ、と呼ばれる。

「どうか、私に君の側にいる許可を与えて欲しい。―――愛している」


(―――あぁ)


 もう、無理。


 私は目を閉じて、隊長の背中に両手を回した。隊長の真意がどこにあるのかなんて、探したって解る訳が無かったのだ。目の前に並べられたもの、それで全てだったんだから。

 遠くから、隊長の名を呼ぶ男の声が聞こえた。さっき隊長と一緒に居た、ラルフ様とかいう軍人だと思う。

「マディ」

 目を開けて離れようとすると、名を呼ばれもっと強く抱きこまれた。

「クレス様、でも、」

「暗いからどうせ見えない。―――もう少しだけ」

 低い声と甘い吐息が耳朶に触れ、私は体を走った甘い痺れに続く言葉を飲み込んだ。確かにあたりはもう真っ暗になっていたし、冷えていた体にも心にも、隊長の温もりは手放しがたいものだった。そんな弁解をしながら私が両腕をさっきより強く隊長に回すと、切なそうな吐息が聞こえる。

 私は微笑み、彼の耳元で降参を囁いた。


「私の負けです。―――愛しています、クレメンス様」



 因みにその後タオルを持ってきてくれたラルフ様が、隊長の緩みまくった顔を見て一体何をどうしたらこんなことになるのかとしきりに私に尋ねてきたので、馬の頭と鹿の頭を順番でかぶった結果ですと答えると更に首をかしげていた。

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