歌姫の十八番、それは軍歌
ごん、という鈍い音と衝撃が後頭部に響き、私は突っ伏していた頭をゆらりと上げた。温かみの有る手作り家具や雑貨が並ぶ店内、支払いのカウンターごしに渋面を浮かべた黒髪の美女が立っている。その手に握られているマグカップを揺らしながら、彼女は寝ぼけ眼の私に溜め息をついた。
「店番中に何寝てるのよ、マディ。だから休暇をとれと昨日言ったでしょ?―――そんな寝不足のツラさげてどうしたってのよ、一体」
「ごめんエレノア…」
「ごめんじゃないわ。ほら、どうせ客は今日もう来ないみたいだし何悩んでるのか吐きな。あんたがそうなったのって先週の休み明けからでしょう。何なのよ、リールに何かあったの?」
赤い紅を引いた唇を不満げに曲げながら、カウンターの中へ入る。エレノアは家具雑貨を扱うこの店「ドローデン」のオーナーであり、私の雇用主だ。
彼女は正確に言うと“彼女”でなく“彼”になる。見た目はエレノアの努力で妙齢の美女にしか見えないが、所謂性別と心が一致しないという障害を抱える人間でとても苦労人だ。そして雇用主である以上に地味の中の地味を突き進む私のよき理解者であり、私の可愛い甥っ子、リールベイの事で何度も相談に乗ってくれる心の姐さんでもあった。
どっこいせ、と簡易テーブルを引っ張りだし、ティーセットを用意するエレノア。私はそれをしょぼしょぼする目で眺めながら、軽く躊躇う。この類まれなる酒の失敗、話すべきか、話さざるべきか。
「さ、じゃあ話して貰いましょうか。言っとくけど誤魔化してもムダよ」
「……じ、実はこないだ体が半透明の」
「誤魔化すにしてもそれは酷いんじゃない?そもそも考えてること全部顔に出るあんたが隠し事なんてできるわけないでしょ」
「…ちくしょう…」
うなだれる私ににっこりと微笑を浮かべ、エレノアがティースプーンをくるりと回した。
「で。何があったの?とっとと吐いて楽になんなさい」
* *
かちこちと時計の秒針が音を刻む部屋に、私の視界でエレノアが頭痛をこらえるような顔で頭を抱えた。今彼女に話したのは一週間前に甥っ子リールベイが連れて来た隊長と、私の初期遭遇の事件の事だ。エレノアは私の話を聞きながらだんだんと顔が険しくなり、呆れ、蒼くなり、果てはこうして頭を抱えている。まぁ何て言うか、話しながら思ったけど実際問題かなりアホだなと思うので彼女の態度には何もいえない。沈黙が降りる部屋で、私は身の置き場が無いような居心地悪さを感じた。
「…つまり、何。リールの近衛入隊祝いでハイになって酔っ払いすぎて?覚えてないけど男をヤリ捨ててしまったら先週リールが連れて来た知人がその男で、しかも交際申し込まれたって事?」
「えぇそう…うわ、ちょっとないわこれ、ないわー…」
「それ私のセリフだと思うのよね。っていうか、あんたねぇ…」
はーっと深い溜め息を落とすエレノアに、気まずい思いでうなだれる。自己嫌悪で鬱になりそうだ。ほんと、マジで何やってんの一月前の私。
改めて己のだめっぷりに死にたくなっていたら、ふとエレノアがそういえば、と不思議そうに言った。
「マディさ、確認するけどその時したたかに酔っ払ってたのよね?」
「え?あ、うん」
「…あんたさ、酔うと何かしら仮装する癖なかったっけ」
「…あるわよ」
「…今回はしてなかったの?」
「………覚えてないけど、馬の頭かぶってたみたいね。翌日届いた請求書にそう書いてあったから。“パーティーグッズ馬の頭”って」
エレノアがまた頭を抱えた。気持ちは解る。どこの世界に馬の頭かぶった女に惚れる男がいるというのか。というかよくヤる気になったなと誉めたい。私だって意味が分からない。
「……それでどうやったら交際申し込まれるのよ!しかも酔った勢いでやった相手でしょ?ないでしょ!何なのその男、馬鹿なの?仕事何してるの?」
「………」
つう、と額に冷や汗が流れて視線をそらした。言い辛い。もの凄く言い辛い。
「マディ?」
急に沈黙した私を訝しげに見詰め、まさか、とエレノアが言った。
「ねぇ、ありえないと思いたいんだけど…リールの仕事仲間とか言わないわよね?」
「………」
「………あああああ」
普段は絶対に出さない低い声で呻き、エレノアがテーブルに突っ伏した。何やってんのよおおおおと地鳴りのように呻き声が響いて、私は目から零れそうなものを上を向いて堪えた。汗だ、これは心の汗だ!私は断じて泣いてなんかない!
「…それじゃあ相手がどういうつもりなのかいまいち解らないけど、そう無碍にもできないわね…。…リールは何て言ってるの?」
「…あー、問題はそっちの方なのよ」
実は、と若干顔色を蒼くしながら起き上がったエレノアに苦い思いで言う。
『マジかよ…。隊長、マディねぇちゃんと付き合ってたんですか!』
『リールベイ。まだ私は彼女に何も言えていないんだ。気持ちばかりが先走ってしまい交際の申し込みすらできなかった』
『マジですか!俺っ!隊長ならマディねぇちゃんの相手として認めても良いと思ってた!マディねぇちゃんを大事にしてください!』
『リールベイ。だからまだ私はマディに何も言えていない』
あの日、かろうじて白目を剥いていない顔で硬直する私を他所に、二人は軽く興奮を宿した目で勝手にそんな会話を続けていた。
そして、隊長は徐に澄んだ湖畔のような真っ直ぐな瞳で私の前に跪くと、そっと私の手をとって。
『―――そういう訳だ、マディ。マデリーン・レスハット。私はあの夜の君の歌声と体に恋をした。どうかこの気持ちを受け止めては頂けないか』
真摯な眼差しでそう言うと、返事はまた後日にと微笑み、二日酔いで思い出したように嘔吐するリールベイを担いで帰って行った。マイペースもここまでくれば暴力だと思う。
「体はともかく歌声って、私濁声で軍歌を歌っただけよ?どこに恋する要素があったの?ねぇエレノア私の軍歌ってそんな迸るパッション兼ね備えてる?」
「私に聞かないでよ!そんな常人からはるか上空に位置する感性持ってないわ私も!―――ってそれより」
いつも何があっても割りと冷静なエレノアが、動揺を映した瞳で落ち着かな気に私を見た。
「エレノア?」
「隊長なの?」
「え?」
「相手。近衛隊の隊長だったの?クレメンス・ラオ・クラウス?」
「―――知ってるの?」
驚いて聞き返した私に、エレノアが虚を突かれたような顔をし、次いで呆れたように溜め息を落とした。
「知ってるもなにも、有名よ。極上の男なのに堅物で、高級娼婦のダイヤモンド・アナスタシアすら袖にした男ってね。あの彼女が相手にもされなかったなんて初めてでしょう?」
「う、うっそ」
「嘘じゃないわよ。知らないっていうあんたに驚きだわ。そのせいでプライド傷つけられたアナスタシアがあの男は不能なのよって言い触らしてるもの。まぁ誰も本気にはしてないし……それが本当だったらあんたこうなってないしね」
やっぱり彼女の苦し紛れの嘘ね、と笑うエレノアに、私は尚更わからなくなった。
夜の色町に咲く大輪の薔薇とあだ名されるダイヤモンド・アナスタシアは、その姿を一目でも見れば皆恋に落ちるという絶世の美女だ。あの清楚でありながら妖艶なお色気美女が相手にされず、何故に私なのか。しかも馬の頭かぶってる酔っ払いの時なのだ、性癖に問題があるとしか思えない。―――まぁ私は酒癖に問題があるけど。
「…ねぇエレノア。私は地味だけど地味なりに一生懸命に生きてるのよ。確かにリールベイは美男子で私はこんなだから、からかいたくなる気もわからないではないわ。だから地味でブスで酒癖悪いからこそ素行には気を付けていたつもりだったの。リールが恥ずかしくないようにしなきゃって、禁酒もしてたし、でもあの日嬉しくて」
「マディ」
「一人前になったリールを見て嬉しくて仕方なかったの。私はきちんとできたんだって、この子はもう大丈夫って。なのにどうして、私…」
「―――マディ」
女性にしては大きすぎる、でも暖かい手にそっと手を包まれた。鬱の大海原へ手漕ぎボートで漕ぎ出していた思考が戻り、私は吐息をこぼしてごめんと謝罪した。
「……まぁ、そうねぇ。状況もやり方も出会いも異常だとは思うけど、どうせもうヤってるんだし、軽い気持ちで付き合うだけなら付き合ってみてもいいんじゃない?」
「エ、エレノア?私の話聞いてた?」
「だってあのマディ命のリールがいいって言うくらいよ?思考はどうも斜め上行ってるみたいだけど、人格は問題ないってことじゃない。身分は保証されているし」
「だからって」
あまりにも呑気な言い様に抗議しようとすると、「それに」とエレノアが言った。
「あんたが恋愛復帰するいい足がかりになるんじゃない?あんたが恋愛しなくなって何年?もう八年は経つわ―――もういいでしょう、マディ」
「―――」
ぴたりと口を噤んだ私を、エレノアが優しい、けれどどこか悲しそうな瞳で見つめた。
「リールはあんたの手から離れて立派に一人立ちしたわ。あんたはちゃんと責任を果たしたの。もういいじゃない、もう誰に気兼ねする必要もないの。リールにも…アイリーンにも」
―――アイリーン。
ぽつりと落とされた名前に、心にじわりと寂寥が浮かんだ。
「…してないわ、気兼ねなんて」
「マディ」
「してないのよ、本当に」
真っ直ぐなエレノアの目に、思わず苦笑して目を伏せた。
アイリーン。目を閉じれば今でもはっきりと思い出せる、一つ下の私の妹。死んだ母に似て綺麗な顔立ちをしていた彼女は、私とは正反対の勝ち気な性格をしていた。十六の時に十も年上の子持ちの男に熱を上げ、駆け落ち同然で結婚した。けれど相手がすぐに死んでしまって結婚生活は二年も続かず、彼女は十七の若さで三歳の子を抱える身となった。頑固な父は家出したアイリーンを許さなかった。アイリーンもアイリーンで意地を張り、実家も私も頼ってはくれなかった。だけどたった十七の少女が一人で子供を育て養うなんて容易であるはずがなくて―――結局アイリーンは無理がたたって死んだ。
―――愛する私のマディ姉さん。ごめんなさい。どうかこの子を宜しくお願いします。ごめんなさい、ごめんなさい―――
私は妹の死を手紙で知った。
六歳のリールベイが哀しみを湛えた瞳で持ってきた、そう書かれた妹の最期の手紙によって。
「確かにアイリーンには頼まれたけど、最終的にリールを引き取ると決めたのは私よ。リールベイは私の可愛い、たった一人の甥っ子なの。妹が命を懸けてまで守ろうとしたその存在を、私はただ何よりも大切に思ってるだけ」
あの日リールを抱き締めながら、決めたのだ。この子が立派に成長するのを見届けると。私は女であるよりもこの子の伯母であり母であり姉であろう、この子のただ一人の唯一として存在しようと決めた。
だって、たった六つの子がお父さんお母さん、そして義母になったアイリーンの、三人分の死をもう受け止めなきゃいけないなんて辛すぎるじゃない。だから私は別に誰かに気兼ねしたとかじゃなくて、自分の意思で結婚しなかっただけ。最善を尽くしたかった、それだけだ。
「別に今の自分に不満はないし、一人の生活もわりと楽しんでるのよ?なのに今さら恋だ愛だなんて」
「リールはそう思ってないみたいよ」
困惑の顔で言う私に、苦笑混じりにエレノアが言った。
「あの子知ってるのよ、あんたがリール引き取ったとき婚約者がいたこと。二年前だったかな、唐突に店に来たと思ったら蒼白でね。八百屋の娘のアメリアがあの時結婚したでしょう、どうもその時に聞いたらしくて。"血も繋がってない自分を引き取ったせいでマディは結婚を諦めた、自分が幸せを奪ったんだ"って泣いてたわ。―――否定しといたから大丈夫、そんな顔しないの」
ざぁっと引いた血の気と共にエレノアを見ると、優しく微笑む顔がそこにあった。
「そんな風に言ったらマディが傷つくわ、リールはマディを傷つけたいのって言ったら、あの子"幸せになって欲しい"って言ったの。だから、それならマディが自慢できるような立派な男になんなさい、それがマディの一番の幸せよって。そう言っといたわ」
「…二年前…」
バラしやがったアメリアはあとで殴りに行くとして、二年前と言えばリールが近衛に入ると言い出した頃だ。夢を持つのはいい事だ、とその時は深く考えなかったけれど、今思えばリールの目は何か強く決意したよう…だった気もする。
「…ねぇエレノア」
「うん?」
「リールは、私に引き取られて幸せだったかしら」
「―――当たり前じゃない」
今まで幾度と無く考えていても、決して言わなかったその問いに、エレノアが見惚れるほどの笑顔で言った。
「今のリールにとっての一番の重要事項はマディが笑顔でいる事なのよ。現在進行形で幸せな人間じゃなきゃ、そんな事考えられるわけないでしょう」
馬鹿ね、と。
隊長の本意はどうなのかは解らないけれど、軽い気持ちでなら前向きに考えても良いかな。
そういう風に思って、私も結構な阿婆擦れだわと苦笑した。