門脇妙子 1-2
午後2時。
「それでは――」
と、浅川はソファの正面に座る濃紺のワンピース姿の徳永香織に声をかけた。「まずは君が最初に自分の力に気づいた時のことを教えてもらえるかな? 憶えてる?」
「はい。小学校2年の時です」
香織はその質問が来ることを予想していたように間をおかずに答えた。
「その時の状況を教えてくれる?」
「朝、隣に住んでるおばあちゃんが透明な階段をゆっくり昇っていくのを見ました。それが最初です」
香織の答えに浅川は表情を変えなかった。
「透明な階段? それって天国への階段?」
「――だと思います。その日の午後に学校から帰ってきておばあちゃんが死んだことを聞かされました」
「そう……その時、おばあちゃんは君に何か言った?」
「いいえ、ただ静かに笑っていただけです」
「君はそのおばあちゃんのことを良く知っていたの?」
「ええ、家が隣だったこともあって家にも遊びにきてたし、私もよく遊んでもらいました」
懐かしそうに香織は言った。
「好きだった?」
「そうですね、今じゃあんまり憶えてないけど」
「おいくつだったの?」
「確か96歳だったと思います」
「へえ、ずいぶん長生きだったんだね」
浅川は驚いたように言った。
「そうですね。本当に元気なおばあちゃんで私が学校に行く時間にはいつも庭で水を撒いていたんですよ」
「君がおばあちゃんと現実に最後に会ったのはいつかな?」
その浅川の質問に香織は少し考え込んだ。
「さあ……あんまり憶えていません。ただ、体調を崩して一週間くらい寝こんでいるという話を聞いて、亡くなる二日くらい前にお見舞いに行ったように記憶してます」
「それじゃ君はおばあちゃんが体調を悪いことを知っていたんだね」
「ええ、そうですね。……あんまり憶えてはいないけど……」
「ふぅん」
浅川は小さく頷いて手帳に何かを書き込んだ。その動作を見ながら香織はおずおずと口を開いた。
「あの――」
「何?」
浅川は手を止めて顔をあげた。
「先生はやはり私が見えているものが幻覚だと思っているんでしょうか?」
「いいや。僕は肯定も否定もするつもりはないよ。まだそんなことを判断するほどの材料はないからね。それに君にそのおばあちゃんの姿が見えたこと、それは紛れも無い事実だと思っているよ。ただ、それが本当の『死者の姿』なのかどうか……それはまだわからないけどね」
「『死者の姿』……まるで『伊吹の民』ですね」
「……え……」
浅川は顔を強張らせた。「なぜそんな話を?」
「私……隣のおばあちゃんに子供の頃聞いたことがあるんです。このあたりに昔、『伊吹の民』と呼ばれる人たちが住んでいたってこと……その人たちは『生』と『死』を操り、なかには死者の姿を見ることが出来る人もいたって……先生は知ってますか?」
「……聞いたことはあるよ」
その話は浅川も知っている。死んだ母が子供の頃に何度も繰り返し話して聞かせてくれた話だ。どこの文献にも載っていないただの昔話。世間でもそんな話を知っている者などほとんどいないことだろう。だが、その一族の存在を浅川は誰よりも信じている。
「私も『伊吹の民』なんでしょうか。先生はどう思います?」
「さあ……どうかな。それと僕はすでに教師を辞めた人間だから『先生』なんて呼ぶ必要はないよ」
浅川は笑顔を作ってみせた。
その時、リビングのドアが開いてベージュのスカートに黄色いトレーナー姿美鈴が走り込んできた。駅から走ってきたらしくわずかに息を切らせている。
「あーん、やっぱりもう来てたんですね」
美鈴は香織の姿を見て言った。
「お邪魔してます」香織は軽く頭を下げた。
「もう始めてたの? 私が来るまで待っててくれればいいのにぃ」
そう言いながら美鈴は浅川の隣に座った。
「なぜ?」
「私だって興味あるもの」
「だからっておまえを待ってるわけにはいかないだろ。おまえがいつ来るかなんてわからないからな」
「今日はちょっと変なことがあって遅くなったのよ」
美鈴は顔をしかめた。
「変なことって?」
「うん、ネットの掲示板上に変な書き込みがあったの」
「掲示板?」
「そう、『出会いの掲示板』」
「おまえ、そんなことやってるの?」
浅川はほんの少し心配そうな顔で美鈴を見た。
「別にそんな心配するようなことはないわよ。結構おもしろいわよ。普通なら会うことのないような人たちが集まって、いろんな話が聞けるわ。暇つぶしにはもってこいだわ」
「まさか会ったりはしないんだろうな」
「オフ会? 私はまだ行った事ないけど、そんな珍しいことでもないわよ」
美鈴は平然と言った。
「あのなぁ――」
「お兄ちゃんの言いたいことはわかってるわよ。でも、私のことでそんな心配したって意味ないでしょ」
美鈴は浅川を制して続けた。「それでね、帰りに図書館にあるパソコンからネットに繋いだんだけど、そこになんか変な書き込みがあったの」
「どんな?」
「『私の標本をおわけします』って」
「それのどこが変わってるんだよ? 別に変ってるとは思えないけど……」
「そうじゃないのよ。ちょっと一度、見てくれればわかるわよ。お兄ちゃんパソコン貸してね」
美鈴は立ち上がると奥の部屋に飛び込んでいくと、すぐに浅川のVAIOノートを持って戻ってきた。
「おい、そんなのあとでいいだろ」
浅川は香織を気遣うように言った。だが、美鈴はそんなこと気にする様子もなくテーブルの上にVAIOノートを置くと電源を入れた。
「ごめん、ちょっと待ってね」
美鈴は顔を上げて香織に言った。
「私なら構いません。私もちょっと興味あるし」
「君もネットとか使うの?」
「たまにメールくらいなら」
「ほら、見てみて」
美鈴はOSが立ち上がるとすぐにブラウザを立ち上げ、そこにアドレスを打ち込んだ。すぐに掲示板が表示される。
「どれ?」
浅川はディスプレイを覗き込んだ。
いくつものスレッドが並んでいて、どれがその書き込みされたものかはすぐには判断できない。
「えっと……これよ」
美鈴はスライドパッド上で器用に指を動かして、マウスを一つのスレッドに持っていった。
『標本おわけします』
さらに美鈴がそのスレッドをクリックすると、そこに書き込まれた一覧が表示される。その先頭にそのスレッドを立ち上げた人間のメッセージが書かれていた。
『私の持つ標本をおわけします。ただし、一体そのままというわけにはいきません。配達を考え、体の一部一部をそれぞれ切断した形でおわけします。希望される方は体のどの部分が欲しいかをちゃんと書いたうえで、申し込んでください。
ちなみに標本は22歳の女性です。身長157センチ。体重41キロ。血液型は不明です』
「ね――」
と美鈴は険しい目でそれを読む浅川に声をかけた。「これってまるで人間の身体をバラバラにして、欲しい人にはあげますよ……ってそんなふうに読めるでしょ?」
「ああ」
「このHNってなんですか?」
香織が訊いた。掲示板の書き込みの最初に『HN:ウイング』と表示されている。
「ハンドルネームの略称よ。ネットのなかでは本名を使わずにハンドルネームで呼び合うの」
「それじゃこれを誰が書き込んだかはわからないってことですね」
「そう。ネットのなかはみんな匿名なの。誰が書きこんだかわからない世界なのよ。だから人によっては他人の悪口とかを平気で書く人がいっぱいいるの」
「いや――」
浅川が顔をあげた。「その気になれば調べることは出来るよ」
「え? どうやって?」
「ネットに入るとき、そのパソコンにはIPアドレスといってユニークな番号が振られることになってるんだ。それは自分が契約しているプロバイダによって決まる。そして、こういう掲示板には必ずログと言われる記録が残ってる。どのIPアドレスでどんなことが書き込まれたか、という情報だ。つまり、そのログとプロバイダのIPアドレスを割り振った記録を付き合わせれば、誰が書き込んだものかはわかるようになってるんだ」
「へぇー。お兄ちゃん、詳しいのね」
感心したように美鈴は浅川を見た。
「学校の授業に情報処理の科目があるんだ。それで生徒たちに教えなきゃいけなくて、前にちょっと勉強したことがある」
「それじゃもしこれが本当の殺人事件だったりしたら、それはすぐにそのログから犯人を割り当てることが出来るってことなのね?」
美鈴は再びパソコンの画面に視線を戻した。
「うん。一般の人がそれを見ることは出来ないけれど、警察ならプロバイダにログを提出させることは出来るだろうからね」
「あ――」
突然、美鈴が驚いたように声をあげた。
「どうしたんだ?」
「レスがついてる」
美鈴はさきほどの書き込みの次に書かれたものを指差した。
『HN:FKAZU
何がもらえるの?
なんだかわからないけど、もらってみようかなぁ。メールくださいね』
「レス?」
「うん、書き込みに対する返信よ。こんなものにレスつけるなんてバカだなぁ。気持ち悪いとは思わないのかしら」
美鈴は呆れたように言った。
「本当に死体の一部送られてきたらどうするつもりなんでしょう」と香織が呟く。
「まさか。一般の利用者はこれだけの書き込みを見たからって相手を特定出来ないよ」
浅川が香織に説明した。それから美鈴に
「おまえも変な書き込みにレスなんてするなよ」と言った。
「わかってるわよ……まあ、こんな書き込み、ただの悪戯だとは思うけど……ちょっと気味悪いけどね」
「こういう書き込みは多いのか?」
美鈴はちょっと考えてから首を振った。
「たまに変な書き込みする人はいるけど……大抵はみんなに無視されて、時間が経って消えていくだけよ」
「そうか」
浅川は考え込むように額に右手を当てた。
「どうしたの? まさかお兄ちゃん、これが本当の殺人事件だなんて思ってるの?」
「それじゃどうしておまえはこれを僕に見せようと思ったんだ?」
「え……それは……」
美鈴は口篭もった。
「何か嫌な予感がしたからだろ?」
「……それは確かにそうだけど……」
美鈴には特別な力が備わっているわけではない。それでも子供の頃から妙に勘が働くことがある。
「あとで倉田さんに電話してみるよ」
「え? 倉田さんに? でも、ただのいたずらだったらどうするの?」
「いたずらならそれに越したことはないだろ」
「あの……失礼ですけど……倉田さんって?」
香織が口を挟んだ。
「僕の知り合いの刑事さんですよ」
浅川は再び、その書き込みを眺めながら答えた。「何かこれを見て感じるものはありますか?」
ちらりと香織を見て浅川は訊いた。
「いえ……べつに……ただ、もしいたずらだとしてこんなふうに女性の特徴を書くものでしょうか?」
「どういう意味?」
美鈴が香織の顔を見た。
「やけにリアルな気がしませんか?」
「リアル……? ただ年齢と身長、体重が書かれているだけよ。血液型は不明になってるし……」
「そこがリアルなんだよ」
浅川が代弁するように言った。「ただのいたずらでどうでもいい書き込みながら血液型や生年月日までも適当に書けばいいだろ。ところがここでは身長や体重などの身体的な特徴は書いているくせに血液型だけはわざと不明と書いている」
「やだ……嫌なこと言わないでよ」
美鈴は眉をひそめた。
「ま……いたずらであって欲しいもんだな」
浅川はじっとディスプレイを見つめた。