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メッセージ  作者: けせらせら
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門脇妙子 1-1

   1・門脇妙子


 いつものようにコンビニでお弁当を買ってからアパートに戻る。

 すでに午後11時を過ぎていて、アパートに向かう道には人影が見えない。門脇妙子はわずかに周囲に注意を払いながら、ほんの少し足を早めた。

 カツカツとアスファルトを叩く自らの靴の音がやけに高く響く気がする。

 一人暮らしを始めた当初はマメに料理もしたものだが、今では仕事に時間を取られ滅多にキッチンに立つこともなくなっている。疲れて帰ってから自分ひとりのためにわずかな食事を作るくらいなら、コンビニで買った弁当を温めて食べたほうがよほど良い。

 市内にある情報処理の専門学校を卒業してすでに2年。帰宅するのはいつも午後10時を過ぎている。それでも最近はまだ早く帰宅出来ているほうで、忙しい時期になれば一ヶ月間、休みなしで毎日深夜のタクシーで帰ることもある。

 だが、そんな生活ももうすぐ終わる。

 一ヵ月後には高校の頃から付き合ってきた丸山修との結婚が待っている。両親との同居ということが心配の種ではあるけれど、義母とは今のところうまくやっていけるような気がしている。

――結婚して幸せになろうなんて思っちゃだめよ。結婚は忍耐なんだから。

 結婚すると両親に報告した時、母が心配そうに話してくれた。確かに母が言う通りかもしれない。もともと結婚に甘い願望など持ってはいない。幸せな結婚生活への憧れはもうとうの昔に捨て去っている。

(きっとうまくいくわ)

 修ならきっと自分を大切にしてくれるだろう。

 少し軽い性格ではあるけれど、修はいつでも自分のことを一番大切に考えてくれる。この2年間、いろんな物も買ってくれた。今、着ている濃紺のスーツも修が買ってくれたものだ。

 付き合って6年。全てが順調だったわけではない。修は何度も浮気をすることもあったし、自分にも密かに思いつづけていた人もいた。別れようと思い悩んだ時期もある。それでも最後には修との未来を選んだのだ。

 まだ修を選んだことが正しかったのだと言い切ることは出来ない。それでも幸せな家庭を築きたい、と妙子は心から思っていた。

 そのためにも今の仕事を綺麗に終わらせておかなければいけない。

 すでにシャッターの閉まったクリーニング屋の横の路地に入ると白い2階建てのアパートがすぐそこに見える。

 妙子はほっと一息ついた。

 コンビニからアパートまでの道は街灯も少なく、いつも夜道を歩くのは緊張する。

 最近、どうも誰かに見られているように感じることが多い。妙子はもう一度後ろを振り返り、誰も尾けてこないことを確認した。

 階段をあがり、一番手前の部屋の鍵を開けて中に入る。部屋のなかがほんの少しいつもよりも涼しい気がした。

 妙子は部屋の電気をつけると疲れた身体を癒すように、クッションの上に座り込んだ。いっそこのまま身体を横にして眠りたくなるほど疲れている。

 それでも――

(電話しなきゃ)

 部屋に戻ってきて最初にやるのが修への電話だった。どんなに遅くなったときでも電話するよう修から言われている。付き合い始めた頃はそれが愛情なのだと嬉しい気もしたが、最近では義務化していて鬱陶しいと感じるときもある。

 修はまだ大学生で、卒業したらすぐに実家の不動産屋を継ぐことになっている。それでもまだ幼い感じのする修との結婚を考えると、これでよかったのだろうかとわずかに迷いが生じる。

 きっと結婚したら今以上に束縛されるのだろう。

 友達との旅行もこれまでのように簡単には行けなくなるのかと思うと、今から少し憂鬱になる。マリッジブルーというほどのことでもないのだが、もう少し遊んでから結婚するほうが良かったのかもしれないと時々思うことがあった。

 それでも、自分が選んだ人を信じたかった。

(そう、きっと大丈夫)

 部屋に電話がないため、バッグから携帯電話を取り出して修へ電話をかけた。

――はい。

 待ち構えていたかのように、すぐに修の野太い声が聞こえてきた。

「ただいま。今帰ったよ」

――相変わらず遅いな。

 ほんの少し非難するような口ぶりも今ではすっかり慣れてしまった。

「しょうがないのよ。今は引継ぎとかいろいろあるんだから」

 これまでにも何度も説明している。

――日曜日に式の打ち合わせあるの憶えてるよな。大丈夫か?

「うん、大丈夫。日曜はちゃんと休めるから」

――土曜日は休めないのか?

「うん……ちょっと都合悪いんだ。ごめんね」

 本当は土曜日も休みを取れることになっているが、すでに会社の友達と遊びに行く約束をしている。だが、そのことを正直に言えば修はきっと怒るだろう。とにかく自分を一番に立ててもらわなければ、すぐ不機嫌になる性格なのだ。亭主関白といえばいいのか、自己中心的といえばいいのか、いずれにしてもこれからの生活が思いやられる。

――まったく。もうすぐ辞めるんだからそんなに仕事に時間取らなくてもいいんじゃないか? 有休だって全然使ってないんだろ?

「そりゃそうだけど、人手だって少ないし、結婚して退職したからっていってまったく縁がなくなるわけじゃないんだから」

――まさか、結婚してからも働くつもりじゃないだろうな。

「違うわよ」

 そうしたいのは山々だ。だが、修がそれを許してくれるはずはない。女は家を守るのが一番の幸せ、というのが修の考え方なのだ。妙子は修に聞こえないように小さくため息をついた。ふわりと冷たい風が頬を撫でる。

(あら?)

 妙子はふと振り返った。まるで窓から風が吹き込んでいるようにカーテンがゆっくりと揺れている。

(昨夜、窓はちゃんと閉めたはずだし……今朝は開けてないわよね)

 妙子はじっとカーテンを見つめた。今はもうカーテンは揺れを止めている。

――本当にあと一ヶ月で辞められるんだろうな。

「うん、大丈夫よ」

 妙子はぼんやりとしたまま答えた。「私、帰ってきたばかりで今からご飯食べるの。寝る前にまた電話するから――」

 そう言うと妙子は電話を切った。

 ふわりと再びカーテンが大きく膨れ、冷たい風が吹き込んでくる。

「やっぱり……」

 妙子がカーテンを開けると窓がわずかに空いている。

「変ね……」

 ぱちりと閉めた後、鍵をかけようとしてはっとした。鍵の部分を中心に大きくガラスにヒビが入り、鍵のところのガラスには小さく穴が空いている。

「やだ……」

 背筋に冷たいものが走った。

 つい先日、テレビで窓ガラスをこじ開けて侵入する泥棒の番組を見たばかりだった。慌てて部屋を見回す。右手はすでに警察に電話出来るように携帯電話を準備している。だが、部屋のなかは今朝、妙子が出て行ったままで荒らされたような形跡は見えない。わずかながらカーペットが汚れているような気がするが、最近は忙しさのため掃除もあまりやっていなかったので、誰かが侵入したという確信も持てない。

 念のために妙子はベッド下の引出しを開け、そこから小さな小箱を取り出した。印鑑や通帳はこの中に入っている。開けてみると通帳も印鑑も手付かずのまま残されている。

 ほっと安堵のため息をつくと同時に侵入者の目的がわからなくなる。

(どうしたんだろ……)

 確かに通帳を盗んでいっても銀行に行った時点で足がつく可能性がある。現金狙いの泥棒だったのだろうか。だが、このベッド脇の引き出しはおろかタンスにしても開けられた形跡はない。一瞬、『ストーカー』という言葉が脳裏をよぎるが、自分に限ってそんなことがあるわけがないと妙子はすぐにその考えを打ち消した。

 ほんのわずかに押し入れの扉が空いているのが見えた。

 押入れのなかには客用の布団と、衣装ケース、普段は使わないようなファンヒーターなどが押し込められている。

 妙子はそっと手を伸ばした。

 警察を呼ぶにしても、何を盗まれたのかをはっきりさせておいたほうがいい。

 ごくりと唾を飲み込んでから妙子は一気に扉を開けた。

 だが、そこもまたいつもとまったく同じように物が並んでいるだけだった。布団も衣装ケースもいつものように押し込まれている。

 ほっと大きく息をつく。

(なんなの?)

 妙子は押入れを背にして部屋を見回した。

 おそらく鍵をこじ開けられたのは昼間のうちだろう。いつも朝、部屋を出る前には窓の戸締りを確認するのが日課になっていて、今朝も怠りなくやったはずだ。だが、部屋の中は荒らされた形跡がまったく見えない。

(鍵を開けただけでいなくなった?)

 そんなことがあるのだろうか。それともあれは泥棒の仕業ではないのだろうか。どこかの子供がボールをぶつけ、ただ割れただけのものなのかもしれない。もし、そうなら警察を呼んでも恥をかくだけだ。

 だが、もし本当に泥棒だったら? やはり警察に連絡したほうがいいんだろうか。

 そんなことを考えながらそっと携帯電話を持った右腕を上げた。

 その瞬間――

 その右腕を背後からぐっと何者かが掴んだ。

 次の瞬間、目の前に大きな黒い手袋が現れ、それは叫ぶ間を与えずに妙子の口を塞いだ。

(押入れだ! 押入れの奥に隠れていたんだ!)

 そのことが理解出来たときにはすでに遅かった。叫び声を上げることも出来ず、その腕のなかから逃れることも出来ない。

「うぅぅぅ!」

 恐怖心で頭のなかが一杯になる。黒い革の手袋に口を押さえられながら、妙子は必死にもがいた。だが、その腕の力は強くそこから逃げることなどまったく出来ない。

 掴まれた右腕が捻り上げられ、その痛みから携帯電話が手からぽろりと落ちた。

「ムダだよ」

 その低く微かな声と共にそっと首筋に息が吹きかかる。その声に全身に鳥肌が立つ。

「うぅぅ!」

 捻り上げられた右腕の痛みから涙が溢れてくる。

「痛いかい? ふふふ……」

 妙子が苦しむのを楽しむように小さな笑い声が聞こえてくる。

(……助けて)

 だが、しっかりと背後から口を押さえつけられ、それは声に出すことは出来なかった。

 突然、その捻り上げられていた右腕が自由になった。妙子は最後のチャンスとばかりに全身に力を込めてその腕のなかから逃げ出そうとした。しかし、どれほどの力を込めてもまったくその腕から逃れることは出来ない。

 やがて、背後からもう一本の腕が妙子の顔に覆い被さってきた。その大きな手のなかに真っ白なハンカチが見えた。すっと今まで口を覆っていた左手と右手が入れ替わる。

 プンと微かに薬品の匂いがした。

(だめだ……吸っちゃいけない)

 本能的に妙子はそれが何であるかを悟っていた。

「あなたのこと傷つけたくないんだ」

 また小さくささやき声が聞こえた。


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