エピローグ
「終わったんですね」
香織は小さく呟いた。
あれから早くも1週間が過ぎている。
頬と腕にわずかに火傷の跡が残っているがたいしたものではない。いずれ記憶とともに消えていくことだろう。
長い髪をバッサリと切ったためか、表情が以前よりも若々しく見える。だが、それはむしろ心の内が変わったせいかもしれない。
「ええ、香織さんのおかげで犯人も捕まえることが出来ました」
「私は見たものをただ浅川さんに伝えただけです」
「けれど、そのおかげで藤枝美月が生きていることもわかりました」
「あんな力でも役に立つんですね」
「最近はどうですか? まだ何か見たりすることはありますか?」
「いいえ」
香織は小さく首を振った。「最近は全然……二日前にご近所のお年寄りが亡くなったんですけど、その時もまったく気づきもしませんでした」
「そうですか」
「私の力は消えてしまったんでしょうか?」
「さあ……どうでしょうね。消えてしまったのかもしれないし、休んでいるだけなのかもしれません」
「それじゃいつかまたヴィジョンを見ることもあるんでしょうか?」
「わかりません。怖いですか?」
「いえ、全然……そもそも私の力は今まで命の証だったような気がするんです。あの人に助けられた証。そして……一度死んだ私自身からのメッセージ」
「そう……それじゃまた力が蘇ってもきっと大丈夫ですね」
「はい」
香織はふと部屋を見回した。
「どうしました?」
「今日、美鈴さんはいらっしゃらないんですか?」
「え……ええ」
香織の問いかけに浅川はどう答えていいか迷った。「……何か?」
「いえ……今、ふっと美鈴さんがいらっしゃるような気がしたものですから」
「今日は大学に行ってますよ」
「そうですか。それじゃ美鈴さんにもよろしく伝えてください」
香織はすっくと立ち上がった。
「ええ」
浅川も立ち上がり、香織を玄関まで見送る。
「あの――」
玄関のドアを開けたところで、香織は振り返った。
「――はい」
「私は……浅川さんのお役に立ったんでしょうか?」
「え?」
「私は浅川さんに助けられたと思っています。浅川さんは……」
「僕も同じ気持ちですよ。あなたと会えて本当に良かったと思っています」
「……よかった」
香織はほっとした表情を見せた。「それじゃ――」
香織は丁寧に頭を下げた。
バタンと静かにドアが閉まる。
(彼女には僕の心が見えていたのかもしれないな)
浅川はじっと閉まったドアを見つめた。おそらく香織は力を失ったのだろう。もう、二度と会うことはないだろう、と浅川は思った。
いずれにしても全ては事件の前に戻っただけのことだ。
「香織さん、帰った?」
リビングに戻ってくると美鈴がソファに寝そべりながら訊いた。浅川はその向かいに腰を降ろした。
「うん」
「やっぱり彼女の力は本物だったでしょ」
「ああ――」
「それじゃ、お兄ちゃんと同族だったの?」
「それは違うよ。彼女は子供の時に命を助けられ、その時の蘇生が原因で『死』を感じ取れるようになっただけさ……本当に彼女が感じ取ろうとしていたのは、自分を一度殺した犯人だったのかもしれないな」
「そう……残念だったわね」
「残念? なぜ?」
「だって同族じゃないかって期待してたんじゃないの?」
「違うよ。彼女が同族でないことは初めからわかっていた。僕は彼女が本当に『死者の姿』が見えるのかどうかを確認したかったんだ。でも、もう彼女も苦しむことはないだろう」
「どうして?」
「彼女の力はあの炎のなかで消えていった。ひょっとしたら僕の右腕に彼女の力も吸い込まれたのかもしれない」
浅川はその包帯の巻かれた右腕をじっと見つめた。『命を奪う力』。浅川自身、知らなかったことだが、ずっと封印してきたこの右手には相手の特殊な『力』をも奪う力があるのかもしれない。
「だから私にも気づかなかったのね」
ため息まじりに美鈴は言った。
「……」
「私もちょっと残念だな……せっかく話し相手が出来たと思ったのに。また私のことを見ることが出来るのはお兄ちゃんだけになっちゃったわね」
美鈴は立ち上がると浅川の隣に座りなおした。
「僕に『生』を与えられる力があれば……」
「苦しまないで。お兄ちゃんが苦しんでるのを見ると私が苦しくなるよ……ごめんね、死んじゃって……」
美鈴はそう言って浅川の顔を見つめた。その瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「違う……おまえは死んでなんていない」
涙が出そうになるのをぐっと堪えながら浅川は美鈴の顔を見つめた。
「そう言ってくれるのはお兄ちゃんだけよ。でもね、お兄ちゃんもそろそろ現実を見つめなきゃだめよ。倉田さんがますます心配するでしょ」
「美鈴……」
それは浅川にもわかっていた。美鈴の名前を出すたびに倉田が表情を暗くする。今回の事件に浅川を巻き込んだのも、少しでも美鈴を忘れられるように倉田なりに気を使ってくれたのだろう。柳田が連絡をくれたのも同じ理由だ。
「お兄ちゃんだって本当はわかっているんでしょ。私はもう1年も前に事故で死んでるんだから。憶えてるでしょ?」
そう……忘れるはずがない。学校で授業をしている時、その知らせは突然飛び込んできた。
――浅川……今、美鈴ちゃんが交通事故で……
倉田の震える声。倉田のあれほどまでに慌てた声を聞いたのは後にも先にもあの時だけだ。あの時から浅川のなかの時計は動くのを止めてしまった。世界はモノクロとなり、無味乾燥な世界が広がるだけとなった。
美鈴の死。それを浅川はどうしても認めることが出来なかった。美鈴はいつも目の間に存在している。それこそが現実だと信じてきた。だからこそ徳永香織が『死者の姿』を見えるのだと知った時、彼女に興味を持ったのだ。それは彼女の力を否定することによって、美鈴の存在こそが現実なのだと自分自身い言い聞かせようとしたのかもしれない。だが、それは逆の結果をもたらした。
「香織さんがこの部屋に来た時に答えは出ていたのよ。香織さんには私の姿が見えたじゃないの。それが彼女の力の証明だったのよ。そして、今日、力を失った彼女は私の姿が見えなくなった……これが私の死の証明」
「美鈴……」
「お兄ちゃんも早く私の『死』を受け入れなきゃね。お兄ちゃんだって気づいてるでしょ。二人で出かける時に周りの人が不思議そうな顔でお兄ちゃんのことを見てることに。でも、不思議だわ。どうしてお兄ちゃんには私の姿が見えるのかしら……お兄ちゃんに特別な力があるのはわかっているけど、他の死んだ人たちの姿はお兄ちゃんにも見えないんでしょ?」
「柳田さんが言っていた。霊を見ることができるかどうかというのは、その人のなかにあるアンテナがどこに向いているかなんだってさ」
「お兄ちゃんのアンテナは――」
「美鈴にだけ向いているのさ」
浅川は腕を伸ばすと美鈴の身体を抱きしめた。美鈴が額を浅川の胸に押し付ける。
「私、いつまでこの世界に留まることになるんだろう……」
「僕が美鈴の存在を感じ取る限り、おまえはこの世界に残るんだ」
そう言って浅川は美鈴を抱きしめる手に力を込めた。
「それはいつまで?」
「僕が死ぬまで」
「ずいぶん先だね」
「うん」
「困ったお兄ちゃんだね」
子供を諭すかのようにそっと囁く。
「うん」
「私、ここに引っ越してこようかな……」
「なぜ? 向こうのマンションの部屋はずっとおまえの部屋として残してあるじゃないか」
すると美鈴は顔をあげて浅川の顔を見た。
「でもね……誰が遊びに来るわけじゃないし、一人でいるのって結構寂しいのよ。大学行ってみても誰も私に気づいてくれるわけじゃないし……お兄ちゃんの邪魔になりたくないから、あまりここには来ないようにしてたけど、やっぱりこっちでお兄ちゃんと暮らしたいな」
「わかった。明日にでも荷物を運びこもう」
「よかった」
いずれ現実に向き合わなければいけない日がやってくるかもしれない。だが、今はまだ美鈴を傍に置いておきたい。
浅川はぎゅっと美鈴の身体を抱く腕に力を込めた。
自分だけが感じ取れる温もり。それでも、この温もりこそが美鈴の『生』の証明と信じたかった。




