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メッセージ  作者: けせらせら
35/39

中川響子 4-7

 夜の空気が冷たい。

 香織は一度その一部壊れた『橋口整形外科』と書かれた緑色の看板を見上げた。

 本当にここにいるのだろうか。

 だが、さっき見えたものは間違いなくこの場所からのものだ。大通りを挟んで、コンビニとパン屋が見える。駅から離れていることもあって人影はほとんど見えない。

 警察に任せなければいけないことはわかっている。それでも、15年前のことを清算するためには、自分自身の手でそれをはっきりさせなければいけない。

 香織は門の隙間から病院の敷地に足を踏み入れた。そして、その建物の脇に足を進めた。

 さっき見たヴィジョンが現実のものならば、建物の脇に地下室に通じる窓があるはずだ。ゆっくりと足を進めていくと、キラリと月の光を反射するものが見えた。

(窓だ)

 スカートが汚れるのも気にすることなく、香織は地面に膝をつきその小さな窓から中を覗き込んだ。

 そこはまさしく、香織のヴィジョンのなかに出てきた地下室そのものだ。部屋の隅にはぐったりと身体を横たえている下着姿の女性の姿が見える。

 おそらくあれが中川響子に違いない。

 香織は立ち上がると、一度正面に回りこんだ。

 大きく深呼吸してからドアに手をかけ、ぐっと力をこめる。鍵がかかっているかもしれないと思っていたドアが、意外にもするりと開いた。

(あの人を助けなきゃ)

 その思いを胸に、香織はそのまま一歩中へと踏み込んだ。

 中はシンと静まり返っている。空気が湿り、淀んでいるのが感じられる。靴底が床に擦れる音が、妙に高く聞こえてくる。

 窓にはブラインドがかけられ、中をはっきりと見通すことが出来ない。

 香織はそっと左手を壁に這わせ前に進んだ。

 小さな待合室の奥のドアに手をかける。ギーっという軋む音とともにドアが開いた。

 指先が震えている。

 鼓動が早く、まるで心臓が耳の傍にあるかのように大きな音で聞こえてくる。

 緊張のせいか息苦しさを感じる。

 それでも香織はなおも足を進めた。

 診療室……手術室、という文字が闇のなかでわずかに読み取ることが出来る。

 ふいに左手の壁が消え、そこに下に降りる階段が現われる。暗闇のために階段の先をはっきりと見ることは出来ない。それはまるでこの星の地下深くまで続いているかのような錯覚を受ける。

 だが、この先には間違いなくさっき見た地下室があるはずだ。そして、そこには中川響子が監禁されている。生死ははっきりしていないが、まだ生きている可能性が高いように思えた。

(助けなきゃ)

 それこそが自分がこの力を持つ大きな理由のように思えていた。

 階段をゆっくりと降りはじめる。

 階段脇の壁がコンクリート剥き出しのザラリとした感触に変る。その感触に香織は思わず足を止め、手をひっこめた。

(逃げちゃいけない)

 誰も知らない、自分だけの知る真実。自分自身の過去がこの先にあるような気がしていた。

 再び壁に手をそっと触れると再び足をゆっくりと前に進める。

 肌に触れる空気は冷たい。それでも背中にはじっとりと汗がにじみ出ている。壁に手をつき、足元に注意しながら一歩一歩進んでいく。

 やがて、階段の一番下まで降りるとすぐ左手にドアが見えた。

 鍵がかかっていないことを願いながらそっとドアノブを回す。ガチャリと鈍い金属音が聞こえ、ドアがゆっくりと開く。

 ギ……ギ……ギーーーー。

 低く、篭った音が暗闇のなかを伝わっていく。

 その音を犯人が聞いたのではないかと、香織は足を振るわせ階段上をじっと見つめた。深い闇が再び音のない世界を作り出す。

(大丈夫……)

 香織はそっと胸を撫で下ろすとその地下室のなかへ足を踏み入れた。

 プンと油の匂いが鼻をつく。

 部屋の奥の高い部分にある窓からうっすらと月の光が漏れているおかげで、地下室のなかはある程度見通すことが出来る。

 天井には裸電球がぶら下がり、向かって左側にはベッドが置かれている。その高さから考えて、手術台かもしれない。

 全て今まで見たヴィジョンの世界がそこにあった。

 香織はすぐに中川響子の姿を捜した。

(いた)

 響子はさっき見た姿のままに倒れている。

 香織は足を速め、その女性のところに歩み寄った。

「大丈夫?」

 小さく声をかけながら、響子の身体に障る。寒さのため身体の表面は冷たかったが、それでも体温を感じ取ることが出来る。

 響子はすぐに気づき頭を動かした。

「ひ……や……やめて……」

 脅えたように顔を背ける。その声は震え、心の底から怯えていることが感じ取れた。左の頬が腫れあがっている。これもまたヴィジョンで見たままの姿だ。

「大丈夫よ。私はあなたを助けにきたの」

 香織は響子を安心させようと声をかけた。

「……え……助けに……? あなた誰なの? 警察?」

「違うわ。でも、大丈夫よ。さあ、紐を切ってあげる」

 そう言って香織は響子の背後に回りこんだ。細く頑丈な紐が女性の両手首に食い込んでいる。その左手に包帯が乱暴に絡み付いているのが見えた。

 香織は紐を解こうと試みたが、その結び目はあまりにがっちり縛られていて簡単にほどくことは出来ない。

(何か切るものを)

 ふと顔をあげた瞬間、天井にぶら下がった裸電球がパッと部屋を照らした。


   *   *   *


 浅川は倉田について宮城県警に行き、そのロビーの固いソファに座り倉田が出てくるのを待っていた。

 香織のことを考えていた。

(彼女はどこへ行ったんだ?)

 ぎゅっと握った手のひらに汗がじわりとにじみ出るのを感じる。今こうしている間にも彼女に危険が近づいているかもしれない。

 首のない死体……削ぎ落とされた指紋……残された腕……スリコミ……

 一人の犯人像が浅川の頭のなかに浮かび上がっている。

「浅川! わかったぞ!」

 倉田がそう叫んで飛び出してきた。その声に浅川は立ち上がった。

「見つかったんですか?」

「ああ、20年前から藤枝宗一郎の運転手をしていた男で橋口豊という男がいる。その男は8年前に運転手を辞め、それからすぐ病死しているが、そいつには義男という一人息子がいたそうだ。国立大学を卒業して今は医者をしている」

 倉田は興奮気味に言った。

「医者?」

「ああ、以前、おまえが言っていたことが当たったってことだな」

「住んでる場所は?」

「旭ヶ丘だ。そこで整形外科を開業しているらしいぞ」

「整形外科?……そんな……」

 浅川は言葉を失った。

 香織の家に行った時のことを思い出していた。緑色の看板。あの整形外科から香織の家までは歩いてほんの5分もかからない。もし、香織が本当にその場所を正確に感じ取っていたのだとすれば、すでに香織はそこに行っているかもしれない。

「おい浅川、一体何があったんだ? さっきの電話は誰からだ?」

 倉田が浅川の肩を掴んだ。その目は真剣だった。香織の名前を出さないにしても、これ以上誤魔化すことは出来ないだろう。何よりも香織に危険が迫っている今、倉田の助けが必要だ。

「情報提供者ですよ。犯人の情報を僕に教えてくれた人です」

 仕方なく浅川は答えた。

「やはりそういう人間がいたのか。おまえがこの事件について訊き始めた時から妙に気になっていたんだ。門脇妙子の遺体をおまえが見つけたのもそのせいなんだな?」

「ええ……そうです」

「何者なんだ? なぜそいつは事件のことを知ってるんだ?」

「それは言えません」

「浅川――」

「倉田さん――刑事としてそのことを訊こうとするのは当然かもしれない。けど、これ以上話すわけにはいかないんです。事件について僕が知っていることは全て倉田さんに教えます。だから、このことについてだけは訊かないで欲しいんです」

 浅川の真剣な口調に倉田は小さくため息をついて手を離した。

「……わかった」

「今、彼女に危険が迫っています。倉田さん、手を貸してください」

「彼女? 女なのか?」

 倉田は驚いて訊いた。

「ええ、彼女はすでに犯人のところに向かっているかもしれない」

「犯人? それじゃ、やはりこの橋口義男が犯人だというのか?」

「ええ、おそらく」

「だが、おまえの話と矛盾するじゃないか。橋口義男が藤枝美月に従順な存在であったとすれば、なぜ橋口は藤枝美月を殺したんだ?」

「従順だからこそ藤枝美月の存在を消したんですよ」

「どういうことだ?」

「あとで説明します! 今はとにかく急いでください!」

 そう叫んで浅川は走り出した。


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