中川響子 4-6
倉田は深夜になって訪れた。
「浅川、丸山は何て言っていたんだ?」
倉田はソファに座ると訊いた。
「電話で話したとおりですよ。幼馴染のことはわかったんですか?」
「それがはっきりしない。近所の人にも訊いて回ったんだが、藤枝美月は子供の頃、小学校に上がるまではずっと一人で屋敷の外に出されたことはなかったそうだ。いつも付き添いの人間と一緒で、友達なんてものはまったく存在しなかった。しかも小学校に上がってからも、いつも運転手が送り迎えをしていて、学校の外で会うような友達は誰もいなかったそうだ」
「それじゃ幼馴染っていうのは?」
「そんな同じ年頃の友達が出来るような環境じゃない」
「そういえば丸山の話じゃ藤枝美月はその男のことを『お兄ちゃんみたいな人』と言ってたようです」
「それにしたって考えられん。藤枝美月がわずかに自由に動けるようになったのは中学での自殺未遂の後からで、それまではずっと同じように運転手つきの生活をしていたそうだからな」
「自由のない生活ですか」
「ま、そういう生活も可哀想なものだよな」
「あれ? 父親の気持ちがわかるんじゃなかったんですか?」
「それにしても度を越えすぎてる。それよりも犯人のことだ」
「……犯人は何を目的としているんでしょう……」
「目的? ただの異常者だとしたら目的などあるものか」
(違う)
異常者であってもそこにはちゃんとした目的があるはずだ。それを見つけ出すことが出来ないだけだ。
門脇妙子が殺されたことも、藤枝美月が殺されたことも、中川響子が誘拐されたことも必ずそこには何らかの意図がある。
指紋の無い指……バラバラ殺人……首のない死体……指紋がつけられた指……燃やされた死体……残された腕……
(もし、安住桜が被害者の一人だとしたら、彼女はどこへ消えた?)
その時、ふと頭のなかに柳田の言葉が浮かんできた。
――スリコミだよ。
「スリコミ……」
「なんだって?」
「いえ……柳田さんの話を思い出したんです」
「柳田? あいつ、事件のことで何か知ってるのか?」
「いえ、事件のことじゃなく『スリコミ』のことです」
「スリコミ? 何言ってるんだ? わかりやすく説明しろ」
倉田の口調が刑事らしく厳しいものに変わる。
「子供の頃に染み付いてしまった習性は、大人になっても簡単には変えることは出来ない」
「それがどうしたんだ?」
「柳田さんの知り合いの患者に、ある会社社長の運転手をしている男の子供がいて、その子供は自分の父親がその社長の言いなりになっているのを見て、自分もそうしなきゃいけないものだと思い込んでしまった。それで、その社長の娘に対して完全な主従関係を結んだ……って」
「まさか――」
「当時、藤枝宗一郎の運転手をしていた男が誰なのかわかりますか?……いや、運転手だけじゃなく、屋敷で働いていた人間、しかも親子で住み込みで働いていた人物がいるかどうか調べてください」
「ああ、わかった」
倉田がすぐにポケットから携帯電話を取り出し電話をかけた。「松村さんですか? お願いがあります――藤枝宗一郎の屋敷で働いていた人間を全てリストアップして欲しいんです。特に親子で住み込みで働いていた者がいないかどうか……ええ、そうです。今、すぐに行きます」
倉田は早口で喋ると電話を切った。
「どうです? わかりますか?」
「ああ、藤枝宗一郎のところにも電話して聞いてもらう。俺は一度本部に戻って情報を集めてくる」
その瞬間、部屋の電話が鳴り出した。
ふと嫌な予感がした。
「――はい」
――浅川さん!
聞こえてきたのは徳永香織の声だった。
「香織さん? どうしたの? まさかまたヴィジョンを?」
――ええ、見ました。犯人がどこにいるかもわかったんです。
「犯人が?」
その声に部屋を出ようとしていた倉田が驚いて振り返る。「どういうことなんだ?」
――私、今からそこに行って見ます。
「バカなことするな!」
――これは私の問題なんです!
「君の?」
――15年前……家に火をつけた人の顔を思い出しました。そして、その人のことを考えた時、私の意識は再びあの地下室に飛んだんです!
「それって――」
――私の家を放火したのと、今度の事件の犯人は同じ人じゃないかって思うんです……いえ、間違いないと思います。
「なら警察に任せるんだ!」
――でも……証拠はありません。何の証拠もないままに警察は捜査出来ないんでしょ? そんなことをしていたらあの人が殺されてしまいます。それに……私は自分の手で決着をつけたいんです!
プツリと電話が切れた。
「どうしたんだ?」
倉田が訊いた。
(くそ! 考えろ! 彼女は今まで見たものを全て僕に教えてくれた。そのなかに答えがあるはずだ!)
浅川は頭をかきむしった。
* * *
夢を見ていた。
子供の頃に見た広い庭。そして、大きな屋敷。
――まったく使えない男だな。
野太い声。その恰幅の良い男の前に立ち、父が深く頭を下げている。これもいつもの風景だった。
――すいません。
父はただひたすら頭を下げ、謝り続けている。
――おまえは誰のおかげで生きていられると思っているんだ?
男はそう言って頭を下げる父を罵る。その男の後ろに小学校に上がったばかりの娘が同じような姿勢で立ち、さげすむような目で父を見つめる。
(なぜだ? なぜあんな小さな子にまであんな目で見られなければいけないんだ?)
いつもそれが不思議だった。
「なぜ、お父さんは叱られているの? なぜあんな人に殴られなければいけないの?」
そう何度も訊いた。その都度、答えは決まっていた。
――あの人はお父さんよりも偉いんだ。おまえもあの人に逆らっちゃいけない。あの人が私たちの生活を支えてくれている。これが私たちの立場なんだ。
男を、そしてその娘を憎んだ。いつか復讐してやる、と思いつづけた。だが、そんな力は自分にはなかった。むしろ、その感情はしだいにあの瞳の前に萎えていった。
――あなたは私のことが嫌いみたいね。でもね、あなたは私のために働かなければいけないのよ。
その瞳はいつもそう言っているように見えた。その瞳に見つめられるたびに、復讐心は陰に隠れる。
あれは支配者の瞳だ。ある日、そのことに気づいた。世の中には支配する者と支配される者がいる。そのどちらになるかは生まれた時から決められているのだ。支配者の命令には従わなければならない。従うことで鬱積した思いを浄化させることが出来る。
しだいに憎しみは服従へと変化していった。
あの人とあの人の娘には決して逆らってはいけない。あの人たちが幸せそうな表情をすることこそが、自分の使命なのだ。これが『立場』というものなのだ。
――ついて来なさい。
――はい、お嬢様。
いつしか橋口義男にとって、藤枝美月こそが絶対的な存在となっていた。
(あの人のためならば――)
どんなことでもしよう。
不思議なことに、そう決めてしまってからは心が軽くなった。父親がどんなに叱られているところを見ても、それが宿命なのだと受け入れられるようになった。
美月もまた義男の気持ちに気づいたのか、毎日のように学校から帰ってくると義男の部屋にやってくるようになった。
――私は友達を作ることが出来ないわ。でも、その代わりにあなたがいてくれる。あなたはずっと私のために働いてくれるでしょ?
義男は黙って頷いた。
父親の許しなしに屋敷を出ることも出来ない美月のために、義男は誰にも内緒で働いた。
大学を卒業する時、父が入院し、それを機に藤枝の屋敷を出ることになった。それでも、義男の忠誠心は変ることはなかった。
父は入院してすぐに息を引取った。癌に蝕まれ、すでに手遅れだった。
父が死に、その保険金を元手に土地を買って整形外科医を開業した。旭ヶ丘を選んだのは、藤枝美月により近い場所にいたかったからだ。
そんなある日、藤枝美月から丸山修のことを聞いた。
――私、あの人のことを好きになったの。でも、あの人にとって私のことはただの遊びだったみたい。
美月の頬をつたう涙は義男の心のなかに殺意を芽生えさせた。
――あの人……婚約者がいるらしいの。
苦しめてやりたい。
自分にとってどんなものよりも大切な人を傷つけたその代償を取らせなければ――
自分の手がどんなに血で汚れようと……




