安住桜 3-9
夕陽が白いビルの壁にあたり、心なしかうっすらとオレンジ色に染まって見える。
浅川はそのビルの前に立ち、2階部分の窓に描かれた『柳田カウンセリングセンター』という文字を見上げた。
自分でも不思議だったが、柳田と話をしてみたい欲求にかられていた。
浅川はそのまま正面入り口からビルに入ると非常階段を上がっていった。
2階のガラスドアはカーテンが閉められていない。どうやら、今日は営業しているのだろう。
(柳田さん、いるのかな……)
一瞬、迷った後、浅川は大きく深呼吸してからドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
正面の受付に座るグレイの制服に身を包んだ若いショートカットの女性がすぐに立ち上がり頭を下げた。
「あの……柳田さんはいますか?」
「失礼ですがどちらさまでしょうか?」
女性はわずかに笑顔を作りながら訊いた。
「浅川といいます」
すると女性の表情は作った笑顔からすぐに自然なものへと変った。
「あなたが浅川さんですか。所長は奥にいますので少々お待ちください」
そう言って女性はすぐに奥へと急ぎ足で走っていった。どうやら柳田から浅川のことは聞いているようだ。
(いったい何を話してるのかな)
柳田のことだから一人の患者として浅川のことを話したのかもしれない。やがて、奥からその女性とともに柳田が姿を現した。
「やあ、ついに決心がついたか?」
柳田はいきなりそう声をかけた。
「いえ、そうじゃありません――」
「じゃ、治療か?」
「いえ……ちょっとこの辺まで来たもので、挨拶でもと思って……」
「なんだ、つまらんな」
柳田はむっとした口調に変った。
「すいません」
「まあいい。せっかく来たんだ。こっちに来なさい」
柳田はそう言って手をひらひらさせながら奥へと歩いていく。浅川は柳田について奥のリビングに入っていった。
「そうだ……この前いただいた名刺、ちょっと使わせてもらいました」
「いちいち報告することはない。あれは君の名刺だ。うちのスタッフにも君のことは話してある。もし、問い合わせがあれば、ちゃんとうちのカウンセラーの一人と説明してあげよう」
「すいません」
「で? 何に使ったんだ?」
「今、ある人の相談に乗っているんですが、その母親が心配になって電話してきたんです。無職の男より何か肩書きを持っているほうが母親は安心するでしょう」
「ふぅん、君が他人の相談にねえ。むしろ相談したいのは君のほうじゃないのか?」
小さなリビングのソファに座ると柳田は言った。
「え? それって……」
「何か気になっていることがあるんじゃないのか? 君の顔にそう書いてある。でなかったらたいした用事もないのにノコノコ私のところに顔を出したりしないだろ」
柳田は分厚い眼鏡の奥からジロリと浅川を見た。これが浅川が柳田を苦手としている理由だ。だが、その柳田の観察は確かに当たっている。
「……まあ、気になっていることがないわけじゃありません。けど、うまく説明も出来ないんですよ」
「珍しいもんだな。君は全てを理論で説明するタイプかと思っていたが」
「それは柳田さんでしょう」
「私と君とは違う。私は事実を理論で説明するだけだ。そして、この世の中、理論で説明出来ないことのほうが多いことを私はちゃんと理解している。それに対して君は全ての事象を理論で説明しようとする。しかも、君は現実を受け止めようとしない。全て君自身の理論と思い込みこそが最優先だ。私に言わせればより君のほうが理屈っぽい」
「柳田さんに理屈っぽいと言われるとは思いませんでしたよ」
浅川は肩を竦めて苦笑した。
「君は私を相当誤解しているようだね。私は理論尽くめの堅物ではないよ。神の存在だって信じているし、霊の存在だって決して否定はしない」
「意外ですね。まさか霊が見えるとか?」
「いや、残念ながらそれはない。霊が見えるのは君だろう?」
「……まさか」
「けどね、見えないから信じない……というものではないよ。世の中には科学で証明できないことは山ほどある。それらを無下に否定するということは自分自身の存在を否定するようなものだ」
「どうしてですか?」
「人間そのものについてだってわからないことは山ほどある。そもそも心というものは身体のどこにあたる部分だと? 脳で考え、身体を動かす。それだけならばロボットと変りはしない。そこに心があるからこそ人間という存在がある。けれど、心という物理的なものはどこにも存在しない。存在しないからといって『心』を否定してしまうならば、それは自分を否定するということになる」
「それじゃ霊を感じることの出来る人はやはりいると?」
「いるのかもしれないね。よく、霊の存在を否定する人は、過去に死んだ人の数を挙げる。何千人、何万人の人間がこの地で命を落としている。それらの人が全て霊として存在しているのなら、あっちこっちに霊がいることになる。そんなもの全てが見えるのか……とね。けど、それはラジオと同じなんだと思うよ」
「ラジオ?」
「人間の目には見えることは出来ないが、今、私たちの目の前をさまざまな電波が飛び交っている。これは紛れもない事実だ。その電波全てを拾ってしまうような機械であれば、それはほぼ雑音に過ぎないだろう。だが、その周波数を選び、その方向にアンテナを向け、チャンネルを合わせることによって的確に電波を拾うことが出来る。霊を見ることの出来る人もラジオと同じことがいえる。そもそも霊感が強いとか弱いとか言うけれど、そんなものは誰にでもあるものだと思うね。死んだ人間に対してどれほど自分のアンテナが向いているか、それによって見えるか見えないかが決まるだけだ」
「アンテナですか……」
浅川は香織のことを思った。彼女のアンテナはどこに向けられているのだろう。彼女が今回の一連の事件についてのヴィジョンをよく見るのはそのためだろうか。
「だいたいそんなことは私よりも君のほうが専門だろう?」
「僕?」
ドキリとした。徳永香織のことは誰も知らないはずだ。
「倉田が心配していたぞ。事件にのめりこみすぎるって。何か夢中になることは良い事だが、それが連続殺人事件となると話は別だ」
「大丈夫ですよ。別に素人探偵を気取るつもりはありませんから」
「あいつが心配しているのはそんなことじゃないだろ」
その時、ドアがノックされ、受付の女性が顔を出した。
「所長、北一興業の沢登様がお見えになりました」
「ああ、部屋に通しておきなさい」
柳田は軽く手を振って答えた。
「急いでいられるようですよ」
「わかってる。あの人はいつでも急いでいるんだ。それこそが自分の欠点だということがわかっていない。たまに少しくらい待たせることも治療のうちだよ」
「わかりました」
女性は軽く会釈するとドアを閉めた。
「北一興業の沢登って……沢登社長のことですか?」
浅川は驚いた。北一興業といえば宮城県に本社があるプラスチック製の雑貨品を製造販売している会社で、その社長の沢登清吾は経済紙に取り上げられることも多い。
「ああ、何を驚いているんだ? 別にここは精神病院ではない。普通のカウンセリングセンターだよ。人間、誰でも悩みを持っているものだ。そして、誰でもその悩みを一人で解決することは難しい。特に人の上に立つような人間は頼るべき存在が少ない。だからこそ私のような人間に救いを求める」
柳田はまるでどこかの教祖様のセリフとも思えるような言い方をした。風貌といい、その話し方といい新興宗教を起こせば十分教祖としてもやっていける気がする。
だが、今の浅川にとってその柳田の言葉は心の奥底に針が刺さるような気がした。
「それじゃ、僕はこれで――」
「救いを求めることは恥ずかしいことではないよ」
柳田は浅川の顔を見て言った。その視線に浅川は思わず目を逸らした。




