安住桜 3-8
燃え盛る炎。
香織は目を閉じたまま、頭のなかに浮かぶ炎のイメージをじっと眺めていた。
浅川と話をしたせいだろうか、あの時の炎がずっと頭のなかに思い出されている。
浅川には話さなかったが、微かにその時の記憶は残っている。
(誰だったろう)
燃える炎のなかを飛び込んできた若者の姿。
倒れている香織を見つめ、そっと近づいてくる。
――もう大丈夫だよ。
そっと香織を抱き起こす。
(あの瞬間――)
その時、初めてあの感覚を感じた。
暗い心、狂気に満ちた感情。それがどこからか香織の心のなかに飛び込んでくる。その感覚に鳥肌が立ち、香織は思わず涙した。
――大丈夫。それは君に許された力なんだよ。
優しいあの声。それはどこか浅川に似ていた。浅川と初めて会ったとき、妙に懐かしい気がしたのはそのせいなのだろうか。
もちろんあれは浅川ではない。それははっきりとわかっている。
――君が感じるのは人間の心のなかにある闇だ。
そう言いながら、あの時若者は香織を抱き上げた。
(心の闇)
炎のなかにその狂気の心が躍っている。
ふと、あの時の感覚を思い出し背筋が寒くなった。
(あれは――)
その感覚に香織ははっとした。昨夜見たヴィジョン。あのなかで感じたものと、15年前に感じた感覚。
あれは同じものだったんじゃないだろうか。
* * *
北川洋子のマンションは仙石線中野栄駅からわずか5分のところにあった。
(さて、どう話をするべきかな)
浅川はドアの前で一瞬、どう話を切り出すべきかを考えた。だが、いつまでも悩んでいても仕方が無い。
浅川はチャイムを押した。
しばらくしてガサゴソ音が聞こえた後でドアが開いた。
「――はい」
肉付きの良い中年の女性が顔を出した。ピンクのワンピースがまるで似合っていない。どうやらこれが北川洋子だろう。安住桜の手帳によると、香田隆文はこの女のところに転がり込んでいるはずだ。
「失礼ですが、こちらに香田隆文さんはいますか?」
「隆文?」
北川洋子はその一重の細い目で浅川をジロジロ眺めた。「あんたは?」
「浅川といいます。安住桜さんのことでお話を聞かせて欲しいんです」
「安住桜? 誰よ、その女?」
「香田さんの知り合いですよ。幸田さんはいないのですか?」
「ちょっと待ってて」
洋子は面白く無さそうな表情をしてドアをバチンと閉めた。安住桜の手帳のなかには恋人の香田隆文を北川洋子に取られた、というようなことが書かれてあったが、北川洋子を見る限りそれはただの誤解だったんじゃないかと思えてくる。誰が見ても北川洋子よりは安住桜のほうが魅力的に見えるだろう。
しばらくしてドアが再び開いた。
髪をボサボサにしたジャージ姿の若者が顔を出した。まるで今まで寝ていたような虚ろな表情をしている。
「何……あんた誰?」
香田隆文はボソリと訊いた。そのぶっきらぼうな言い方はどこか北川洋子に似ている。人の性格というのは遺伝以上に共に暮らす人により影響を受けるという話を誰かから聞いたことを思い出す。
「浅川といいます。安住桜さんのことで話を聞かせて欲しいんですが――」
「あんた、桜とどんな関係なの? まさか……警察?」
隆文は警戒するような目で浅川を見た。
「いえ、桜さんの妹さんの担任でした」
「担任? なんだ教師か……」
その表情からわずかに安堵の色が見える。「で? その教師が何の用?」
「妹さんから頼まれて安住桜さんのことを捜してるんです」
「捜してる? 何それ」
「彼女、行方がわからなくなったんです」
途端に一瞬浮かんだ安堵の表情が一転して厳しいものになった。
「どういうこと? あいつ、いなくなったの?」
隆文はサンダルを履くと、表に出てきた。どうやら北川洋子には話を聞かせたくないのだろう。
「ええ、4日前から連絡が取れないそうです」
「4日……」
「大の大人が4日くらい連絡取れないくらいで騒ぐのはどうかとは思いますが――」
「いや――」
と言った隆文の表情は固かった。「あいつがそんなに長い間連絡取れないなんてあるわけねえよ。あいつ、夜になると必ず妹にメール打ってたからな」
「……そうですか。どこに行ったか心当たりは?」
「わかんねえ」
隆文は俯いて首を振った。
「本当に?」
「ああ! 俺はあいつとはもう2ヶ月以上会ってねえんだ」
隆文はそのボサボサ頭をかきむしった。
「心配かな?」
「……べ、別に……」
「妹さんから聞いたんだけど、彼女ここしばらくの間、君に捨てられたことで大分落ち込んでいたみたいだよ」
「別に……捨てたわけじゃねえよ」
隆文は吐き捨てるように言った。
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「金が必要だったんだよ」
隆文は声を潜めて言った。
「金?」
「俺は今の劇団を一流にするのが夢なんだ。そのためには金がいるんだよ……あいつだってそのくらいわかってたさ」
「まさか金のためにここの人のところへ?」
「悪いかよ」
ぼそりと呟き隆文は浅川を睨んだ。
「悪いだろうね」
「なんだと?!」
「君が夢を持つのは自由だ。だが、その夢は自分自身の力で掴んでこそ意味がある。他人を犠牲にして……しかも自分を本気で愛してくれた人を犠牲にして夢を手に入れてもそんなものたいした価値はないよ」
「俺は桜のことを愛していたさ」
「だったらなおさらだ。彼女を愛していたなら、彼女を守るべきだ」
「だが――」
「彼女は事件に巻き込まれた可能せいだってあるんだよ」
「事件……?」
その目に動揺で虚ろに動く。
「もし、彼女がその犠牲者になっていたとしたら、それは君のせいだ」
浅川はきっぱり言った。
これ以上香田隆文に訊いても安住桜の行方はわからないだろう。浅川はクルリと背を向けた。




