安住桜 3-1
満月が夜空に煌々と輝いている。
深夜2時。街は完全に寝静まっている。
安住桜はアパートの100メートルほど手前でタクシーを降りると、目の前にあるコンビニでタバコを1カートン買い込み、そこから1箱取り出して禁断症状でも起こした中毒者のように急いで一本咥えて火を点けた。
大きく紫煙を吸い込み、ほっと生き返ったような気分になってゆっくりと歩き出す。
毎日がただ惰性のように感じられる。
帰ったところで誰もいない冷たい部屋が待っているに過ぎない。2年前、家を飛び出した時には香田隆文という存在があった。隆文は市内にある劇団員で、いずれは上京しプロの俳優になるのだといつも夢を語っていた。その隆文の夢を共有したいがために、大学を辞めスナックでバイトを始めた。隆文のためなら自分の持つ全てを捧げようと思った。
その隆文もすでに2ヶ月前に部屋を出て行ったきり戻って来ない。残ったのはわずかな衣類と、隆文が桜名義で作った借金だけだ。
どこにいるのかはわかっている。きっと同じ劇団の女のところに転がり込んでいるのだろう。何度、怒鳴り込もうと思ったか知れない。だが、そんなことをしてみても隆文の気持ちがすでに自分から離れていることはわかっている。いや、もともと自分に対する気持ちなどなかったのかもしれない。
ただ、都合が良かっただけ……。
(何がプロよ)
自動販売機の横に置かれた空き缶を力いっぱい蹴飛ばした。空き缶は道路の反対側にカラカラと音を立てて転がっていった。
2年前までは桜にも介護士になりたいという夢があった。そのために福祉大学に入学したのだ。けれど、その道も今は絶たれてしまった。
自分で選んだ道。それはわかっている。親友の忠告も聞かずに隆文を愛してしまった自分が悪いのだ。全てを捧げてこの人を愛しつづけよう。そんな甘い幻想に道を踏み誤ってしまった。
真っ赤なスーツに濃い化粧。すっかり水商売の女のいでたちが身についてしまった。今さらながらに自分の姿に苛立ちが募る。
(私には何が残されてるんだろう……)
まだやり直すことは出来る。事情を知る友人たちからもそう励まされる。高校生の妹も家に帰るように勧めてくれる。確かに今ならまだもとの自分に戻ることも出来るかもしれない。
理屈ではわかっていても、それに素直に頷けない自分がいる。
自分が騙されたのはわかっている。それでも隆文のことなど忘れることなどきっと出来ないだろう。どんなに時間が経とうと、自分はきっと隆文の影を追いつづけるに違いない。
(なんてバカなの!)
いっそもっと別の自分になることが出来れば、全てを忘れることも出来るかもしれない。
――どこか遠くへ行きたい。
それが近頃の桜の口癖になっていた。けど、それもただの口先だけの言葉。どこへも行くことなど出来ない。
桜は小さくため息をついた。
ふと、背後で小さく物音が聞こえ、桜はドキリとして思わず振り返った。黒い影が民家の塀にすっと隠れたような気がした。
(そういえば……)
先日、今朝テレビで見たニュースのことが思い出される。バラバラ死体で見つかったのは、この近所のアパートに住んでいた女性だった。自分と同じ22歳の女性だったということもあって桜には印象強かった。
(まさか)
桜は不安を打ち消した。こんな住宅街のど真ん中で襲われるということはまず考えられない。いくら深夜といえども声をあげれば近所の住民の耳に十分届くだろう。
むしろ理性を失った酔っ払いのほうがよほど怖いかもしれない。そして、毎晩のようにそんな酔っ払いの相手をしているのが自分なのだと思い桜は苦笑した。
桜は歩き出した。
アパートはすぐ目と鼻の先だ。そう思うとなぜか気分が重くなった。部屋に戻るたびに隆文のことを思い出してしまう。二人で2年前に二人で部屋を捜して不動産屋を回ったこと、何もない部屋でお互いの温もりを確かめ合ったこと。あの部屋にいる間は決して隆文のことを忘れることなど出来るはずがない。
(本当に東京へ行ってみようかな)
つい1ヶ月前、桜は一人であることの寂しさからパソコンで出会い系サイトに登録した。『女友達の募集』としたにも関わらず、男からのメールが集まる中、そのなかに一通の女性からのメールがあった。桜はその『カスミ』と名乗る女性とメールをやり取りするようになった。初めてのメル友ということで、最初の頃は警戒してパソコンだけでメールのやり取りをしていたが、話をするうちに徐々に打ち解けてきて3週間前から携帯電話でもメールのやり取りをはじめている。彼女は今現在の自分自身から逃れ、近いうちに東京に行くつもりなのだと話してくれた。桜も最近ではいずれ仙台を離れ、遠くへ行ってみたいとカスミに話すようになっていた。
桜にとって、それが東京である必要はない。ただ新しい場所へ行くことで、新しい自分に生まれ変われるような気がしている。未練など何もない。
(彼女……どうしてるかな)
カスミからはこの5日ほどメールが来ていない。それまでマメに連絡が来ることが多かったため桜は心配していた。
桜は短くなったタバコをポイと進行方向に投げ捨てると、そのまま右足でぎゅっと踏み潰しながら歩いていった。
ついさっき感じた人の気配も、今ではまったく感じられない。ただ夜道をコツコツと歩く自分の足音だけが響いている。
角を曲がり、赤い煉瓦調の壁のアパートの階段を上っていく。
バッグから鍵を取り出し、2階の一番奥のドアに鍵を差し込んだ時、ポケットのなかの携帯電話がメロディーを奏で始めた。
(彼女からのメールだ)
桜はドアを開けて部屋に入ると、携帯電話を取り出してメールを開いた。久々のカスミからのメールに桜は心を躍らせた。
『おかえりなさい カスミ』
まるで桜の行動を見ていたかのような、そのメールに桜は驚いた。桜はすぐにメールを返信した。
『どうしてわかるの?』
いったいどこまでカスミに自分のことを教えてきただろう。これまでカスミにメールした内容を思い出そうとした。仕事のことやアパートのことを話したこともある。ひょっとしたらこれまで送ったメールからこのアパートを特定することも出来るのかもしれない。
桜のメールに対して再び、カスミからのメールが届く。
『ちょっとドアを開けてくれる? カスミ』
その場に立ったまま、桜はすぐにメールを打ち返した。
『どうして? ひょっとして近くにいるの?』
メールを送り、1分もしないうちに再びメールが届く。
『ドアを開ければわかるわ カスミ』
やはりカスミはこの近くにいるのだ。
(どういうこと?)
いつかは会ってみたいという気持ちはあったが、こんな形で突然やってくるカスミに対して桜は苛立ちを感じた。
桜は鍵を開けるとドアを少し開けた。
その瞬間、大きな黒い手がぬっと現れると、そのドアが再び閉まるのを避けるようにぐっとドアを掴み大きく開いた。
「な……」
その隙間から現れた人物に桜は驚いて後ずさった。
(違う)
それは桜が思い描いていた人物とはまるで違っていた。悲鳴をあげようとするところをもう一本の腕が伸びて桜の口を塞いだ。桜の手から携帯電話がポロリとこぼれて足元に転がり落ちた。口元を覆われた瞬間、その手のなかにハンカチのようなものが見て取れた。ぐっしょりとしたその感触とプンと鼻につく匂いから、ハンカチに何か薬品が染み込ませられているということはすぐに感じ取った。
逃れようと桜は必死になって手足をバタつかせた。それなのに、それから顔を背けるということが出来ない。
左手一本で口元を押さえられているだけだというのに、その太く屈強な腕は決して桜が両腕で取り外そうとしてもピクリとも動こうとはしなかった。
(ちきしょう!)
その時、携帯電話が桜の足元で鳴り出した。そのメロディーからそれが妹からの電話であることに桜はすぐに気づいた。
(早苗!)
心のなかで妹の名前を呼ぶ。次第に意識が遠のいていく。