徳永香織 0-1
0・徳永香織
目を覚ました時、すでに10時を過ぎていた。
仙台の秋の訪れは早い。9月も末になると、夏もすっかり終わりを告げ、ベッドの中の温もりが妙に心地いい。
浅川圭吾は目覚まし時計をぼんやりと見つめ、今日、入っていた予定を思い出そうとした。
(ああ……そうだ)
しばらく考えてやっと思い出す。
11時にお客がやってくることになっていたことをやっと浅川は思い出した。浅川はベッドから起き上がると、洗面所で顔を洗ってからパジャマを脱いでジーンズと白いシャツという姿に着替えた。
いつもならばスーツを着て、学校で授業をしている時間だというのに、なぜか頭がはっきりしない。
(まるで緊張感がなくなってるな)
浅川はキッチンでインスタントのコーヒーをいれてくると、グレイの布張りのソファにどっかともたれた。苦いコーヒーを口にすると頭の芯が少しだけしっかりしてくる。
改めて自分が昨日で教師を辞めたことを振り返る。
(5年か……)
その期間が長かったのか短かったのか、それは自分でもよくわからない。そして、その決断が正しかったのかどうかもまだわからない。
差し出された退職届に驚く校長の顔が思い出される。
――なぜですか? いったいどうしたんです?
そう問われても浅川には答えることが出来なかった。なぜ今になって突然辞めようと思ったのか、自分でもわからない。それでも一昨日の夜、そうするのが自分の道なのだと、突然に誰かに言われたような気がしたのだ。そして、その考えが脳裏を過ぎった時、浅川は素直にその考えに従うことにした。
生徒たちには何も話もしなかったが、何も問題は無いだろう。受け持っていたのが2年生だったのも幸運だった。3年生ならば、こう簡単に辞めることは出来なかったかもしれない。特別に生徒たちと打ち解けていたわけでも、慕われていたわけでもない。今時、担任が辞めたからといって感傷的になるような生徒がいるとも思えない。辞めた今となっても特別な感情は湧いてこない。それほどまでに機械的に教師という仕事を続けていたということなのかもしれない。
特にこの一年は、ただ惰性で毎日を過ごしてきただけだ。むしろ生徒たちのことを考えればもっと早く辞めるべきだったのだろう。
――おまえはどこか普通の人間とは違うな。
浅川が学生の頃、亡き義父が浅川にそう呟いたことがある。義父は浅川が普通の社会生活など送れるはずはないと考えていたらしい。教師になることを告げた時の義父の驚いた顔が今でも忘れられない。だが、結局、その教師という仕事も昨日辞めてしまった。つまりは義父の予想は当たっていたということだろうか。
義父は生前不動産会社を経営し、バブル期の成功からマンションを北仙台に1件、泉中央駅前に一件、そして、泉中央駅から歩いて5分のこのマンションと合わせて3件のマンションを所有していた。3年前に義父が死んだ後、それら全てを浅川が譲り受けている。
浅川はコーヒーをぐっと飲み干した。
その時、玄関のドアがガチャリと開く音が聞こえ、浅川ははっとして立ち上がった。
(美鈴……)
この部屋の鍵を持ち、自由に出入り出来る人間は浅川以外に妹の美鈴しかいない。美鈴は市内にある大学に通っている。普段は泉中央駅前にあるマンションで一人暮らしをしている。両親が連れ子同士の再婚だったため、浅川と美鈴とは血のつながりは無い。それでも、時々、浅川が仕事で留守の時にやって来ては部屋を掃除してくれたりしてくれている。
浅川の実父は、浅川が幼少の頃に病死しほとんど父のことは記憶していない。浅川にとって義父こそが唯一記憶に残る父親で、美鈴は実の妹のように大切な存在だった。
仕事に出かけているはずのこの時間に、自分が部屋にいるのを見たら美鈴はどう思うだろう。
(どうしようもないか……)
逃げることも出来ず、浅川は再びソファに腰を降ろした。
リビングのドアが開き、浅川美鈴が顔を出す。
「よぉ……」
浅川は作り笑いを浮かべながら右手をあげた。浅川の姿に美鈴は一瞬驚いたような顔をした。
「あ……お兄ちゃんいたの? 今日、学校は休み?」
白いブラウスに青いジーンズを履いて、栗色に染めた長い髪を後ろで束ねている。丸顔に大きな瞳が印象的で、そのあどけない顔立ちは高校生と間違えられることもある。駅から歩いてきたせいか、その白い肌がうっすらとピンクに染まって見えた。
「ん? いや……その……」
浅川は言いにくそうに口を開いた。教師を辞めたことを美鈴に隠しておくわけにはいかないだろう。
「何? どうしたのよ?」
美鈴はそう聞きながらバッグを向かいのソファの上に置いた。
「実は学校は昨日、辞めたんだ」
途端に美鈴は目を丸くした。大きな瞳がますます大きく見える。
「辞めたぁ? どうして?」
「……なんとなく」
「まったくー」
呆れたように美鈴は声をあげた。「いつかこんなことになるんじゃないかって思ってたんだぁ。これからどうするつもりなの?」
「いや……まだ考えていないんだけど」
子供の頃から美鈴はしっかりした性格で7歳も年が離れているというのに、浅川は美鈴には頭が上がらない。初めて美鈴に会ったのは浅川が中学2年の春だ。あの時、父親の陰に隠れておどおどしていた美鈴の姿を今でも思い出す。
「やっぱ父さんが言ってたとおりになったわね」
「父さん?」
「うん、お兄ちゃんが教師になった時からずっと心配してたよ。『あいつに教師なんて勤まるんだろうか』って」
「……そう」
「それじゃマンションの管理人でもする? 藤岡さんから、そろそろ辞めたいって言われてるんでしょ?」
藤岡夫妻はもう10年も前から北仙台にあるマンションの管理人をしてもらっている。だが、すでに70歳を過ぎ、仕事を辞めて田舎に引っ越そうと考えているのだと、たびたび相談されている。
父が残したマンションの家賃収入のおかげで生活に困ることもない。浅川自身が管理人をするというのも悪い考えではないかもしれない。
「まあ、ゆっくり考えてみるよ」
「ゆっくりねえ……なんかお兄ちゃんの場合、10年経っても答えなんて出ない気がするわ」
そう言って美鈴は笑った。
その時、部屋のチャイムが鳴った。
「あら、こんな時間に誰だろ?」
美鈴が振り返る。浅川はちらりと壁にかけられた時計に視線を向けた。午前10時55分。
おそらく彼女だろう。
「出てくれないか。鍵は開いてるはずだ」
「私が?」
途惑った表情を見せながら美鈴が玄関に向かう。そして、数分の後、リビングに戻ってきた。
「お兄ちゃん、お客さん」
不思議そうな顔で美鈴は言った。その後ろには一人の女性が顔を覗かせている。ほっそりとした顔つきに、少し青白く感じるほどの肌の色。濃いベージュのワンピースを着たその女性は浅川の姿を見てほっとした表情をした。
「お邪魔します」
その女性はソファに座る浅川に深々と頭を下げた。背中まである長い黒髪がサラリと揺れる。
「いらっしゃい。わざわざすまないね」
浅川は立ち上がると声をかけた。「どうぞ、座ってください」
「――はい」
美鈴が慌ててソファに置かれていたバッグを避けると、女性は素直に頷いて浅川の前に座った。
「お兄ちゃん、この人は? まさか……カノジョ?」
美鈴は困惑した表情で浅川に訊いた。
「そんなわけないだろ」
「じゃあ誰?」
そのやりとりを見て女性は再び立ち上がった。
「あの……私、徳永香織といいます。浅川さんとは昨日初めてお会いました」
「昨日?」
美鈴はなおさら驚いた顔をした。「まさかナ・ン・パ?」
「違うよ。彼女には特別な力があるんだ」
浅川は美鈴が誤解しないように慌てて付け足した。「昨日、偶然にもその力を目の当たりにしてね。ちょっと彼女の力について知りたくなって今日、ここに来てもらったんだ」
「特別な力って……」
「彼女には他の人には見ることの出来ないものを見る力があるんだ。今日は、それを調べたくて来てもらったんだ」
そう言ってから浅川は香織に顔を向けた。「こいつは僕の妹で美鈴といいます。時々、遊びに来るんですよ。さあ、座ってください」
「……はい」
香織は大人しく腰を降ろした。
「香織さんって何歳です?」
美鈴が興味深そうに訊いた。
「19です」
「え……私の一つ下?」
美鈴は驚いたように手を口に当てた。確かに美鈴よりも香織のほうが大人っぽく見えるかもしれない。
「美鈴、悪いけどお茶いれてくれないかな?」
「え……ええ」
美鈴はまだ納得いかない表情をしながらも素直にキッチンへと向かった。
「あの――」
と、香織が口を開いた。「ご迷惑じゃなかったですか?」
「迷惑? とんでもない。君を招待したのは僕ですよ。迷惑なわけないでしょう」
「でも――」
と香織はキッチンのほうを心配そうに見つめた。
「美鈴なら大丈夫ですよ。ところで君、今、この部屋に何か見えるものはある?」
そう言われて香織は部屋をぐるりと見回し、首を振った。
「いえ、ここには何も」
「そうか……」
浅川は少し残念そうに右手の人差し指でこめかみのあたりの掻いた。その袖口から包帯が覗いているのを香織はそっと見つめた。
キッチンのドアが開き、美鈴がアップルジュースをグラスにいれて運んできた。
「どうぞ」
ジュースをテーブルに置くと、美鈴もそのまま浅川の隣に座る。
「それじゃいくつか質問させてもらっていいかな?」
「その前に教えていただきたいんですが……」
「何?」
「どうして私の力に興味を? 何か研究をされているんですか?」
「いや、そうじゃないよ。僕は別にそういうものを専門に研究している研究者ってわけじゃない。だから君の力について何かわかったとしてもどこかに公表するようなことはないから安心してほしい」
「それじゃどうして?」
「うん、言葉は悪いけど『好奇心』かな」
「好奇心……?」
「実はね、君に似たような男を僕は一人知っているんだ」
美鈴が驚いた表情で浅川を見た。
「お兄ちゃん、それって――」
浅川は美鈴を無視して続けた。
「そいつは僕の高校の同級生だったんだけど、そいつにも君に似た力があった。僕には見えないものがそいつには見えるんだ。よく驚かされたよ。もちろんそいつの持っている力が君とまったく同じものである保証はない。けど、君を昨日見た時、すぐにそいつのことを思い出した。そして、その力について調べてみたいと思ったんだ」
「その人は今何をされてるんですか?」
「さあ、高校を卒業してからほとんど連絡をとっていないからわからないんだ。噂では大学を卒業して刑事になったという話を聞いたことがあるけどね」
「……そうですか。それじゃ会うことは出来ないんですね」
少し残念そうに香織は呟いた。
「ただ、そいつに言わせれば、それは特別な力というわけじゃないらしい」
「え? どうしてですか?」
「そいつが言うにはね、例えばこうして部屋にいる時に、濡れた傘を持っている人が訪れるとする。そうすると外を見ることなく、雨が降っていることはわかるだろ?」
「ええ」
「つまり、その人をよく観察することによって、その人の持っている過去やこれからの行動までもある程度は予測できるというんだ。そいつにはずば抜けた観察力があった。だからこそ、他人にはわからないことまで知りえる力を持っていた」
「私のも同じものだというんですか?」
「それはまだわからない。でも、その可能性はあると思ってる」
「でも、私にはそこに存在しない人の姿が見えるんですよ」
香織は少し語調を強めた。
「君に見えるからといって、それが現実とは限らない」
「私が嘘を言っているって言うんですか?」
「いいや、君が言っているのはおそらく真実だだろう。ただし、それが必ずしも現実とは限らない」
「どういう意味ですか?」
「たとえば『夢』。眠っている人間にはリアルに見えるものだろう。だが、それは現実のものじゃない。あれは脳が見せているものだ。つまり君が見ているものもそこに本当にあるものではなく、君の脳がそこにイメージを作り出し、君に見せているのかもしれない」
「それじゃ昨日のは?」
「君はあの少年のことを本当に知らなかったと言ったね」
「はい」
「それは本当なのかな? もしかしたらどこかであの親子に会っていたとは考えられない会? それにあの父親があのトラックの運転手と話をしているところを以前に見ていたのかもしれないね。そして、君はどこかでそれを目撃し、昨日、彼らを見た時、無意識のうちにその記憶のなかから二人が知り合いであることに気づき、その少年の姿をイメージすることでそれを認識したんじゃないかな?」
「……わかりません」
香織は視線を落とし俯いた。
「もちろん僕が言っているのは一つの仮説に過ぎない。実際に君に死者の魂や、現実には存在しない者の姿を見ることの出来る力が備わっていることだって否定は出来ないわけだからね。僕はそれを解き明かしたいんだ」
「お兄ちゃんの好奇心を満たすためにこの人を犠牲にする気なの?」
美鈴が口を挟んだ。
「そう言われると身も蓋も無いなぁ。でも、確かに僕の好奇心であることも間違いないし、こんなことに付き合いたくないというのであればそれも仕方ない。そもそも僕はそういうことを専門に研究している人間でもないからね。彼女のことを考えたら、もっと違う人に調べてもらったほうがいいのかもしれない」
「いえ――」
香織は顔をあげた。「そんなことありません……私自身、なぜ私にこんな力があるかずっと知りたかったことです」
「そう」
浅川は嬉しそうに微笑んだ。
「あの……さっき昨日の事故のことをおっしゃいましたが、やはりあの二人は知り合いだったんですか?」
「ああ、あれは君の言ったように父親とあのトラックの運転手は仲間だったみたいだ」
「仲間?」
「うん、事故にあった被害者の男の子は母親の連れ子らしいんだが父親とは不仲だったみたいでね。そこで父親が子供に高額の保険をかけて、事故にみせかけて殺そうとしたらしい」
「……ひどい」
「うん、知り合いの刑事に二人が知り合いなんじゃないかって話をしたら、いろいろ調べてくれてね。おそらく今日には逮捕されるだろう」
「その刑事さんって、さっき話してた人ですか?」
「いや、それはまた別の人だよ」
「それより、どうやって香織さんの力のことを調べるつもりなの?」
また美鈴が口を挟む。
「僕はさっきも言ったようにそういうことに関する専門家じゃないからね。本気で調べるつもりならば、大学に行って専門の教授に調べてもらう必要がある」
「それは嫌です」
香織はきっぱりと言った。「そんなことになるのが嫌だったから、今まで誰にも言わなかったんです」
「うん、僕もそんな形で君を研究の材料に使うつもりはないよ。だから、君が今まで見たり聞いたりしたことを時間のある時にここに来ていろいろ話して欲しいんだ。それをもとに僕なりに君の力を分析してみたい。もちろんわずかだけどバイト代は払うよ。どうかな?」
「わかりました……でも、バイト代は要りません。私は私自身のために浅川さんに話を聞いてもらいたいんです」
「ありがとう」
「いつ来ればいいんです?」
「そうだね、僕は昨日も言ったように今は時間を持て余しているからね。いつでも構わないよ。来る前に携帯に連絡さえいれてくれさえすれば、ここで待ってるよ」
「わかりました、それじゃ明日の夕方にまた来ます」
香織はすっと立ち上がった。