藤枝美月 2-9
浅川が旭ヶ丘の駅に降り立った時、空はどんよりと曇り今にも雨が降り出しそうな雰囲気に包まれていた。
久々に着たグレイのスーツのせいか妙に肩が凝る気がする。
浅川はポケットからメモを取り出した。メモには徳永香織の家の住所が書かれている。
――娘のことでお話が――
その電話が掛かってきたのは今朝早くだった。
なぜ、香織の母、徳永千賀子が浅川のことを知っているのか驚いたが、どうやら香織の部屋から浅川の電話番号が書かれたメモを見つけ、心配になって電話してきたらしい。
――娘とはどんな関係なんでしょうか?
一度、香織の母親に会って、香織について話を聞いてみたいと思っていただけに、浅川はすぐに香織の家に向かうことにした。
(それにしても――)
大学生ともなれば男性と知り合う機会も増えるだろう。それこそ見知らぬ男の電話番号が書かれたメモが見つかったからといって、いちいち電話していたのではキリがない。それなのにわざわざ電話してきたところを見ると、よほど娘のことが気になっているのだろう。それはつまり香織の力のことをうすうすは気づいているということかもしれない。
交差点を渡るとすぐ左手に整形外科の看板が見えた。窓ガラスが一枚破れ、実際にやっているのかどうかわからない。その脇の細い路地を抜けてまっすぐに歩いていくと、言われた通りにベージュの壁の家が見えた。
どうやらここが香織の家らしい。
浅川は門に備えられたインターホンのボタンを押そうとした。その時、玄関のドアが開き、一人の女性が顔を出した。
「浅川さんですか?」
女性は恐る恐るといった感じで浅川に声をかけた。
「はい。香織さんのお母さんですね」
「ええ、どうぞ入ってください」
徳永千賀子は周囲を気にしながら浅川に言った。どうやら、近所の人に浅川の姿を見られたくないらしい。
顔立ちはやはり香織に雰囲気が似ているが、服装のせいか香織以上に地味な雰囲気がある。髪にはあちこちに白髪が混じっている。濃い茶色の膝下まで隠れるスカートに濃紺のセーターがどこかアンバランスに見える。
浅川は足早に家のなかへと入っていった。
「どうぞ」
千賀子が用意してくれたスリッパを履き、案内されるままにリビングへと通された。
「浅川圭吾と言います」
早めに不安を取り除いたほうがいいだろう、と浅川はソファに座る前にポケットから名刺を取り出して母親に渡した。それは柳田が浅川のために用意してくれたものだ。元高校教師といえども、今はただの無職の男に過ぎない。娘がそんな男と知り合いでは不安になるだろう。こんなところでその名刺が役に立つとは思っていなかった。柳田には後で連絡しておけば許してもらえるだろう。
「カウンセリングセンター?」
「カウンセラーをしています。けど、ご心配ありませんよ。香織さんくらいの年齢に悩み事を持つのは極当たり前のことです」
浅川は千賀子を安心させようと言った。だが、千賀子は意外にも冷静だった。
「そうですか。どうぞお座りください」
「……はぁ」
その落ち着き様に浅川はむしろ驚いた。浅川がソファに座ると、その向かいに千賀子が座った。
「やはりあの子病院なんて行ったんですね」
千賀子はじっと手の中の名刺を見つめながら言った。それは香織がカウンセリングを受けていることを当然のように思っているようだった。
「それはどういう意味です?」
「あの子、何を話しました?」
千賀子は顔をあげて浅川を見た。
「それはお母さんでも申し上げられません。彼女の問題ですから」
「……そうですか……きっとおかしなことを言ったんでしょうね」
「おかしなこと? 何か気になることでもあるんですか?」
「あの子は普通の子とは違ってるんです」
千賀子はポツリと呟いた。
(彼女の力を知っているのか?)
「どういうことです? 話してもらえませんか?」
千賀子は一瞬、躊躇った様子を見せた後、思い切って口を開いた。
「あの子は昔から変ったところがありました。妙に感受性が強い、とでも言ったらいいんでしょうか。特に近所で誰かが死ぬと決まって熱を出すんです。時には夢を見て、一晩中泣いていたこともありました」
「それはいつ頃からです? 生まれて間もなくですか?」
「い……いえ……」
千賀子はまだ何か大事なことを言っていいものかどうか迷っているようだった。
「どうぞ話してください。それが彼女を助けることになるかもしれない」
浅川はいかにもカウンセラーのような言い方をして千賀子の言葉を促した。千賀子はポケットからハンカチを取り出すと、そのハンカチをぎゅっと握り締め話し始めた。
「あの子が変ってしまったのは4歳の時です」
「何かあったのですか?」
「火事が……」
「火事?」
「私たちはその頃、黒松に住んでいました。あの子が4歳の時、その家が火事になったんです。あの夜、あの子が眠った後、私と主人はあの子を残し友人の家に遊びに行きました。その間に家が火事に……」
千賀子はそう言って言葉を詰まらせた。
「ゆっくりで構いませんよ」
千賀子は大きく息を吸い込むと、自分の気持ちを落ち着かせるように左手を胸に当て再び話し始めた。
「近所に住んでいた友人が私に連絡をくれて……私たちはすぐに家に戻りました。きっと誰かが助けてくれるものと信じて……けれど、戻ってみると、そこにあの子の姿は見えませんでした。近所の人たちは皆、あの子が私たちと一緒だと思い込んでいたんです。消防署の人たちが消火に当たっていましたが、炎は激しく誰も近づくことも出来ません。私は泣き叫びました……もう誰もあの子を助けられないのかと……そんななか、一人の男の人があの子を抱きしめながら、燃え落ちる寸前の家のなかから飛び出してきたんです」
「男の人?」
「ええ……高校生くらいの男の子でした。あの子はその男の子の腕のなかで静かに何事もなかったかのように眠っていました」
「その男の子というのは誰だったんですか?」
はやる気持ちを押さえながら浅川は訊いた。
「わかりません。彼は何も言いませんでした。ただ……私にあの子を手渡しいなくなる前に変なことを言ったんです」
「変なこと?」
「『この子はもう一つの世界を繋ぐ存在になった。いろいろあるかもしれないが、それがこの子の運命なんだ』って」
浅川はドキリとした。
「もう一つの世界を繋ぐ存在……」
「その時は私も気が動転していたので、さしてその言葉など気にもしませんでした。けれど、あの子はその後変ってしまいました。あの子が『死』に非常に敏感になったのはあれからです。いつも誰かが亡くなると、あの子はぎゅっと拳を握り締めて遠くを見つめているんです。きっとあの子には私たちには見えない何かが見えているんだと思います」
千賀子は浅川の顔を見た。「あの子を助けてあげてください!」
「……ええ」
「あの子、私たちには何も言いません。でも、私にはあの子が苦しんでいることがわかるんです。先生、お願いです」
千賀子はそう言って頭を下げた。
* * *
徳永香織の家を出ると間もなく、雨がポツリポツリと路面を濡らし始めた。
浅川はぼんやりと徳永千賀子の話を思い出していた。
(火事か……)
香織も言っていたように、徳永千賀子には香織のような特別な力は備わっていない。それは浅川にも感じられた。もし香織の『力』が本物なのだとすれば、それは千賀子が言うようにその火事が原因になっている可能性が高いだろう。だが、たとえ火事に遭ったからといって、全ての人が香織のような力を身につけるわけではない。
つまりその夜がきっかけで香織に力が備わったとしたら、他にもっと何か違う要因があるに違いない。
その炎のなかで何が起こったのだろう。
香織が4歳の時ということは、もう15年も前のことだ。その時の若者を捜しだすなどということは到底不可能だろう。
だが、それでもその若者のことが気になった。15年前といえば浅川が12歳の時だ。その若者が高校生くらいということは、浅川よりも3~4歳上ということになる。
それとも香織がその力を身につけたのはその若者とはまったく無関係なのだろうか。
(そんなはずはない)
彼女は普通の霊能者とは違っている。そのことは浅川も感じていた。だからこそ、浅川は香織に特別に惹かれたのかもしれない。
ズキリと右手が痛む。浅川はその左手でぎゅっと右手の手首を握り締めた。
しだいに雨は強くなり肩を濡らす。だが、浅川は雨のことなどまったく気にすることなく駅に向かって歩き続けた。




