藤枝美月 2-6
マンションに帰るとドアの前に徳永香織が立っているのが見えた。
黒いロングスカートに白いブラウス姿の香織は浅川が帰ってくるのをみてほっとした表情で軽く頭を下げた。
「もう来てたんですね。待ちましたか?」
「いえ、たった今来たところです。早く来すぎてしまったから……どうしようか迷ってたところなんです」
「確か約束は3時ですよね」
浅川は腕時計を見ながら言った。ちょうど1時を回ったばかりだ。
「お話したいことがあったんです」
香織は真剣な表情で言った。
「何か?」
「あの、その前に……どこへ行かれていたんです?」
「ちょっと知人と会っていたんですよ」
「それは刑事さんですか?」香織は即座に訊いた。
「どうしてそう思うんです?」
「それは……」
何かが見えたのかもしれない。香織の態度に浅川はそう思った。「とりあえず中に入ってください」
浅川は鍵を開けて中に入った。
ドアを開けると玄関に美鈴の靴が置かれている。どうやら学校に行くのをサボってやってきているらしい。
リビングから掃除機の音と、それよりも高いステレオの音が響いている。これでは香織がチャイムを鳴らしたところで聞こえないだろう。
「ただいま」
リビングのドアを開け、掃除機をかけている美鈴に声をかけると、美鈴は驚いたように振り返った。美鈴は浅川よりも10センチ以上背が小さく156センチしかないのだが、ジーンズを履いているとその足の細さのせいか、実際よりもスラリと背が高く見えるから不思議だ。
「おかえり。あ、香織さんも一緒だったの?」
美鈴は慌てて掃除機と、ステレオのスイッチを切った。
「おまえ、大学は? サボったのか?」
「違うわよ」
美鈴は口を尖らせた。「今日は休講よ。来て見たらお兄ちゃんいないからちょっと掃除してあげてたの」
「休講? ホントか? ちゃんと授業受けてるんだろうな」
「本当よ。そもそも私が今更そんなにマジメになってもしょーがないでしょ」
美鈴は投げやりに答えた。
「学問はいつでも誰にでも必要だよ」
「やだ、何お父さんみたいなこと言ってるのよ」
浅川の言葉に美鈴は吹き出した。
「笑うなよ。一応、今、おまえの保護者は俺だからな」
「はいはい。でもね、無職の保護者じゃ貫禄ないわよ」
美鈴は軽く受け流すと掃除機を抱えてキッチンへ入っていった。
「さ、どうぞ」
浅川は立って二人のやり取りをぼんやりと立って見ていた香織に座るように勧めた。
「あ、はい」
香織は素直にソファに座るとポツリと呟いた。「兄弟っていいですね」
「香織さんは一人っ子でしたね」
「ええ、ずっと兄弟っていうのに憧れてたんです。家にいても同じような視点で話し相手がいるっていいですよね」
「時にはうるさいもんですけどね」
「それでも話し相手がいるのはいいですよ……私の場合は、もう一人の私が話し相手でした」
そう言った香織の表情は少し寂しそうだった。
「もう一人の自分? ひょっとしてもう一人の君が何か君に話したの?」
「え?」
「僕が知り合いと会ってきたと言ったのを、君は『刑事』だと言いましたよね」
「ええ……さっき浅川さんが帰ってこられる直前に部屋の前で……」
「彼女に名前はあるの?」
多重人格の場合、それぞれの人格が名前を持っているのはよくあることだ。
「いえ、名前はありません……何より彼女は私自身ですから」
「彼女は何て言ってたの?」
「浅川さんが事件の情報を得るために警察の人と会っているって……すぐに戻ってくるって教えてくれました」
「そう……それで話というのは?」
「ええ――」
香織は浅川の言葉に顔をあげた。「実は昨日、また夢を見たんです……いえ、あれは夢というよりも……」
「ヴィジョン……ですか? 誰か死んだ人の姿を?」
「わかりません。その人が死んでいるのかどうかわからないんです」
そう言った香織の唇はわずかに震えていた。その様子からよほどの恐怖を感じ取ったのだろうと浅川は感じた。
美鈴がキッチンからコーヒーをいれて姿を現した。ちらりと香織の表情をうかがいながらテーブルの上にコーヒーカップを置いて、美鈴自身も浅川の隣に座る。
「それが誰なのかはわからなかったんですか?」
浅川は一瞬止まった香織の言葉を促すように訊いた。
「わかりません……そもそも顔が見えなかったんです」
「顔が?」
「女性のほうは顔に包帯をしていました」
「女性のほう? 一人じゃなかったんですか?」
「ええ、男性と女性の二人でした。男の人は後ろ姿だったので……顔はわかりません」
そう言った香織の目は怯えているように見えた。
「……なんか不気味ね」美鈴も呟く。
「その人は何か言ったんですか?」
浅川の問いかけに香織は首を振った。
「いえ……何も。女性はベッドに寝かされていて、その脇に男の人が立っていました」
「……二人」
なぜ香織がそのようなイメージを見たのか、浅川はそれを理論的に説明する糸口を探そうとした。「二人はどんな姿でした? それ以外に思い出せることはありますか? 例えば着ているものとか」
「ええ……男の人は白衣を着ていたと思います。手には手術で使うようなメスを持っていました」
「白衣? それじゃ医者ですか?」
「ええ、そんな感じに見えました」
「それはどこでした? どこかの病院?」
「さあ……部屋は全体に暗くて……窓も見えなかったです。病院というよりも地下室みたいでした」
「他には?」
「女性のほうはベッドに寝かされていたのでよくわかりません。ただそのベッド脇に黒いワンピースが落ちてました」
(黒のワンピース?)
思わず浅川は右手を額に当てた。
「どんなワンピースだったかわかりますか? 例えばブランドとか……」
「いえ、さすがにそこまでは……」
その質問は香織にとって意外だったらしく、小さく驚いた表情を見せた。「どうしてですか?」
「実はね――」
と、浅川は倉田から聞いたことを香織に話すことにした。「さっき知り合いの刑事さんから話を聞いたんだけど、また先日の事件と同じように切り取られた指が送られてきたらしいんだ」
「え……」
香織が眉間に皺をよせた。
「もちろんこれはまだ発表されていないことなんだが……被害者と見られているのは白英女学院の藤枝美月という女性です」
「え? 藤枝先輩?」
横で美鈴が驚いたように声をあげた。
「おまえ、知ってるのか?」
「中学の時の先輩よ。すごく頭が良くて美人で……男の子なんてみんな憧れてた……高校はお兄ちゃんの学校に行ったはずよね。いったいどういうことなの?」
「彼女が行方不明になったのは三日前。最初は身代金目的の誘拐事件だと見られてたらしいんだけど、今朝になって切り取られた指が送られてきた。彼女が行方不明になった時の服装がシャネルの黒いワンピースで、上に黒いジャケットを着ていたそうだ」
「それじゃ香織さんが見たのは藤枝先輩ってこと?」
「……そうかもしれない」
ちらりと香織に視線を戻す。「君は藤枝美月さんを知ってる?」
「いいえ」
すぐに香織は首を振った。
「この人だよ」
浅川はポケットから手帳を取り出すと、その間から倉田から渡された写真を香織に向けてみせた。
「いえ、知りません」
香織はやはり首を振った。
「そう……」
香織がそう答えることはなんとなく予想が出来た。おそらく香織は嘘などついていないだろう。香織は間違いなく、藤枝美月のことを知らないのだ。それは香織の口調からはっきりと感じられる。
(なら、なぜ彼女は彼女のことを見たんだ?)
それにもう一人の男のことも気になる。もし、彼女が『千里眼』のような力を持っているのだとすれば、その男がこの事件の犯人である可能性は極めて高い。だとすれば、倉田に連絡する必要が出てくる。
だが、まだそれは決定的な証拠とはとても言えない。
(どうすればいい……)
浅川は香織の表情を伺いながらじっと思案にくれた。




