藤枝美月 2-3
空気が澄み、空が遠くに見える。
秋空という言葉がピッタリなほどの青い空が広がっている。
浅川は地下鉄長町駅の地下通路を外に出ると、大型ショッピングセンターへ向かう大通りにあるファーストフード店の小さな交差点を右に曲がった。
柳田秀三が所長をしている『柳田カウンセリングセンター』は地下鉄長町駅から歩いてほんの5分程度のところにある5階建ての小さな雑居ビルの1フロアにある。もともと祖父が小さな雑貨店をしていたところを譲り受け3年前に雑居ビルを建築し、その1フロアをビルオーナーである柳田修三が使っている。
浅川はまだ新しいその建物の前まで来ると、小さくため息をついた。まるで歯医者に行くのをためらっている小学生のようだ、と自分でも思う。
浅川は正面のドアを開け、中へ入るとエレベーターを使うことなくすぐ脇にある非常階段から柳田のいる2階へと向かった。
表のガラス戸にはカーテンが閉まっている。柳田が言ったようにまさか浅川のためにわざわざ休んだわけでもないだろう。
(いるのかな?)
浅川は正面のドアに近づくと脇に備えてあるインターホンのチャイムを押した。ほんの少ししてからスピーカーから声が聞こえてくる。
――はい。
「浅川です」
――おお、来たか。待ってなさい。
ガチャリと受話器を置く音が聞こえ、すぐに正面のガラス戸が開かれた。白衣を着たひょろりと背の高い頬のこけた男がにこやかに浅川を出迎える。
「ご無沙汰してます」
浅川は軽く頭を下げた。
「まったくだ」
分厚いメガネの奥で細い目が微かに笑っている。どうやらわりと機嫌が良いようだ。「さ、入りなさい」
浅川は柳田に促されるままに中に入った。センター内は待合室の診療室、奥に小さなリビングと簡単なキッチンだけが設置されていて、決して広いとはいえない。柳田は細い通路を通って、一番奥にあるリビングに浅川を案内した。
「今日は休みですか?」
「何を言ってるんだ? 君のために休みにしたと言ったろう」
柳田は冗談なのか本気なのかわからないような言い方をした。「それより、君はどうして教師を辞めたんだ?」
「……別に深い理由はないんです」
「理由もないままに辞めたわけじゃないだろう。そんなことをするのは倉田ぐらいなものだ。あいつは本能のままに動く。君の場合はむしろ考え込みすぎて何も出来なくなるタイプだ」
柳田はその分厚いメガネの奥から心の中を覗き込もうとするように浅川を見た。だが、その柳田の言葉は的を獲ているかもしれない。
「そうですね。でも、本当に深い理由はないんですよ。毎日毎日、学校に通って生徒たちや他の先生たちと接していく間に、だんだん教師って仕事が自分にむいていないように思えてきたんです」
「君、教師になって5年だよね」
「ええ」
「5年経ってやっと気づいたのか。君が高校教師などに向かないことは、僕も倉田もずっと以前からわかってる」
柳田はキッパリと言い切った。柳田は浅川より2歳年上で、まだギリギリ20代なのだが、それはまるでサトリを開いた仙人の言葉のように聞こえる。
「けど、教師という仕事が嫌いだったわけじゃありませんよ」
浅川は反論の意味をこめて言った。
「確かに君は教師という仕事には向いているかもしれないな」
「え? 向いてるといったり向いていないといったり……どっちですか?」
「僕は高校教師に向いていないと言ったんだ。教師に向いていないとは言ってない」
「どう違うんです?」
「高校教師ともなれば義務感だけで通ってくる生徒もいるし、大学受験だけを目的として通ってくる生徒もいる。純粋に学問を憶えたい生徒などいたとしてもほんの一握りってことだよ。自分たちの高校時代を思い出してみればわかるだろう。そして、教師のほうだって同じだ。毎日毎日、同じことの繰り返しでただ惰性で授業をしているに過ぎない。そんな授業を受けるくらいなら、自分で勉強したほうがどんなにいいかしれないからね」
「それは柳田さん自身のことでしょう?」
柳田が高校の頃、ほとんど登校しなかったということは、以前、同級生である倉田から聞いたことがある。
「それじゃ君は高校の授業が今の生活に生きているかね?」
「さあ……」
「ほら見たまえ。君が選んだ高校教師などその程度のものだったということだよ。どうせなら大学に残って教授の道を目指したほうが良かったと思うね」
「大学生でも純粋に学問のために通ってる生徒は少ないですよ」
「それでも高校教師よりはましだ」
柳田はフフンと軽く笑った。「ところで、君は今後どうするつもりなんだ?」
「しばらくのんびり過ごしてみるつもりですよ」
「のんびり? 殺人事件に首を突っ込むのがのんびり過ごすってことなのか?」
どうやら倉田が柳田に話したようだ。
「あれは単に倉田さんの相談相手をしているようなものですよ」
「カウンセリングとでも?」
「そう……ですね」
「だったらいっそのこと仕事でそれをやってみたらいいじゃないか」
柳田はにんまりと笑って言った。
「仕事で?」
「そうだよ」
そう言うと柳田は背後の机の上に手を伸ばして、小さな紙袋を取るとそれを浅川の前にポンと置いた。
「なんです?」
「今日来てもらったのはこれを君に渡すためだ。開けてみなさい」
そう言われて浅川は紙袋を開けて中を覗いた。小さな青い半透明のケースがあり、中に名刺が入っているのが見えた。
「名刺ですか?」
手を突っ込んでそれを取り出し、浅川は驚いた。
『柳田カウンセリングセンター 浅川圭吾』
それは紛れもなく浅川自身の名刺だった。
「柳田さん、これは?」
驚いて問い掛ける浅川に柳田は――
「君、心理学を専攻していたよね。なら、教師という経験もあることだし、カウンセリングくらいは出来るだろ?」
「まさかここで働けってことですか?」
「そんな驚くことではないだろ。どうせ暇なんだから一度経験してみたらどうだ?」
飄々とした口調で柳田は言った。
「冗談でしょ……」
すると柳田はすごく不愉快そうな顔をした。
「冗談? バカ言っちゃいけないよ。私はいたってマジメだ」
「でも――」
「それとも君は私のところで働くのに何か不都合があると?」
「そうじゃありません。けどねえ」
浅川は困ったように右手で頭を掻いた。
「心配しなくてもちゃんと君の給料くらいは払ってやる。それに君の治療も含めてやってあげてもいい」
「僕の治療?」
「君、相変わらずそんなことしているのか?」
柳田は浅川の右手首に撒かれた包帯を指差した。
「あ……これですか」
浅川は思わず右手を引っ込めた。
「大学の頃からずっとそんなものを撒いているそうじゃないか? 何のマジナイかは知らないが、見たところライナスの毛布と一緒だろ?」
「ライナスの毛布?」
「スヌーピーだよ。まさか知らないのか?」
「いや、スヌーピーくらいは知ってますけど……」
「そのなかにいつでも毛布を片手に持ってる子供がいるだろ。子供の頃についた習性というのはなかなか治すのは難しいものだ。特に子供の頃に強烈な出来事があるとそれが頭のなかにこびりつき、それから逃れられなくなる。つまり一種の『スリコミ』のようなものだな」
「スリコミって……卵が孵ったときに一番最初に見たものを親と思い込むっていう……あれですか?」
「別に動物の話だけじゃない。実際には『スリコミ』なんていうのは、この世の中あちこちに転がってる。テレビコマーシャルだって一つの『スリコミ』だ。毎日のようにテレビをつけるたびに、商品を見せ付けられれば知らず知らずのうちにその商品のことが頭にこびりつき、スーパーに行った時にはふと手にとってしまう。そういや、知り合いのクライアントの話なんだが……自分の父親がある大会社の社長の運転手をしていたんだが、その父親の姿を毎日見ているうちに自分自身もその立場でなければいけないと思い込んでしまってね。いつの間にかその社長の家の娘に対し、完全に主従関係を持ってしまった。その男にとってはどんな時もその娘の言葉こそが絶対的な意味を持つんだ。その娘から電話があればすぐにすっ飛んで行き、娘の言いなりになる。そこまでいくとなかなか治療も追いつかなくなる。何しろ治療の最中だろうと、娘からの連絡を受けて医者が止めるのも聞かずにすっ飛んでいくのだからね。君のその包帯も同じことが言えるんじゃないか? いい加減、卒業する努力をすべきだと思うけどね」
「はぁ……」
柳田の言葉に、浅川はどう答えていいかわからなかった。




