藤枝美月 2-1
秋の訪れを告げる冷たい風に吹かれながら公園の木々の葉がサラサラと揺れている。
誰もいない公園は、その気温以上に肌寒く感じてくる。それでも藤枝美月はベンチに座り、黒いワンピースの上に羽織った黒いジャケットのポケットにそっと手をいれた。そのままの姿勢で、ぼんやりと秋の空を眺めた。
高い秋の空を白い雲がゆっくりと流れていく。
大学の友達は皆、就職活動で忙しく動き回っている。美月はすでに父が経営する建設会社に就職することが決められている。この就職難の中、就職活動に走り回っている友達には贅沢だと叱られるかもしれないが、まるで自分ひとり取り残されてしまったようで寂しく感じられる。
(まるで風に漂うだけのあの雲と同じ)
バッグにいれた携帯電話がメールの着信を告げた。
美月はすぐにバッグから携帯電話を取り出してメールを開いた。メールは『桜』というメル友からのものだった。
『今、出勤する準備してるんだ。カスミちゃんは何してるの?』
『カスミ』というのは美月のハンドルネームだ。桜は市内のスナックでホステスをやっているらしい。桜もまた美月と同じように今の自分を変えたいと、思い悩んでいる22歳の女性だった。
『どこか遠くに行きたい』それが桜の口癖だった。そして、それは美月にとっても同じ気持ちだった。
美月は少し考えた後でメールを打ち始めた。
『桜ちゃん、私、やっぱり東京に行こうと思ってる。ううん、出来ればこの日本を離れたい。そうすれば今とはまったく違う自分に会える気がする。私はもっと強い自分になりたいの。桜ちゃんも応援してね』
正直な気持ちだった。
父親である藤枝宗一郎はまだ45歳という若さながらも県議会議員として権勢を振るっている。国政という舞台に踊り出ることもそう遠いことではないだろう。子供の頃、そんな父親の存在は美月にとって誇らしいものだった。
――おまえは私に似てる。
いつもそう言って父に頭を撫でられるたびに嬉しく感じられたものだ。だが、成長するにしたがい、その父の力は娘である美月のことまでも支配しているように思えるようになってきた。
もし、父が今の地位になかったら……何度そんなことを考えたろう。
父にとって自分はただの人形と変わらない。そう感じた時、美月の心のなかに怒りの炎が点火された。
きっとこんなことを言ってみても他人からはただのワガママを言っているようにしか見えないだろう。それは自分でもよくわかっている。確かにお金に不自由したことはない。いつも使いきることなど出来ないほどの小遣いがヴィトンの財布のなか収められている。けれど、それは自らの自由と引き換えに無理やり押し付けられたものだ。
子供の頃から自由など与えてもらったことなどなかった。いつも父の許しなしでは遊びに行くことさえも出来なかった。誰とどこに行くのか、何をするのか。それを言わなければ家を外出することさえ許してもらえなかった。そして、1日の終わりには、今日一日のことを全て報告しなければいけなかった。子供の頃はそれが当たり前だと思っていた。中学生になって幼い頃に死んだと聞かされていた母が実は生きていることを知った。
――お母さんは、あなたのお父さんの束縛に耐えられなくて逃げ出したのよ。
母を知る遠縁の親戚がそっと教えてくれた。
あの頃からずっと、今の自分から逃げたいと思いつづけてきた。これまでも2度、家を出ようとしたことがある。一度目は中学の時、母が静岡にいると聞き家を飛び出した。けれど、東京駅で追いかけてきた父の秘書の一人に捕まり家に帰らされた。二度目は高校を卒業する時、父に内緒で東京の大学を受験しようとした。その時も学校から父に連絡が入り、市内の大学を受験させられた。
そして、来年、父の会社に就職するということは今以上に束縛がきつくなることを意味している。
(このままじゃいけない)
この街から、いや、この世界全てから自分という存在を消してしまいたい、と美月は思った。
そっと左手の手首に残る傷を見つめる。中学の時、家に連れ戻された時に切った時の傷だ。その時痛めた神経のため、左手はあまり自由には動かない。いっそのこと、この傷とともに自分の存在を消し去ってしまいたい。
カサリと背後の草むらが揺れる音がして、美月ははっとして振り返った。大柄な男がすぐ背後に立っているのが見えた。