プロローグ
プロローグ
それを初めて認識したのは私が小学校2年の時だった。
朝、起きて庭を眺めた私の目に飛び込んできたのは、隣の家のおばあちゃんが静かに優しく微笑みながらゆっくりと透明な階段をあがっていく姿だった。
それが何を意味しているか私にはすぐにはわからなかったが、昼過ぎに学校から帰ってきておばあちゃんが死んだことを聞き、初めて私が見たものが何だったのかを知ることになった。そして、私は本能的にそれを誰にも喋らないほうがいいと思った。
思えばそれまでにも何度か同じようなものを見た記憶があった。だが、それまではそれが何なのかハッキリと気づけなかった。
それからは頻繁にそういう人々の姿に気づくようになった。しかも、それは死者だけではなかった。私をじっと見つめる私自身の姿もあったし、絵のなかから抜け出てきたような人間とは思えない異形の姿の者もいた。何か意味不明の言葉を喋る男、まったく口を開こうとせず私をじっと見つめる女の姿もあった。中にはまったく自分が死んでいることに気づかずに生活を送る者さえ存在していた。
どうして私がそんなものを見ることが出来るのか、そして、どうしてその者たちが私の前に姿を現すのか、私には到底理解することが出来なかった。
中学、高校と進むにつれて、その者たちが私の前に現れる頻度は増えていった。私はいつもそんな光景を横目で見ながら毎日を暮らしていた。
そんな時、私は彼に出会った。
大学からの帰り道、私は交差点の向こうに佇んでいる小学生くらいの少年の姿を見つめていた。すぐ傍には大きくひしゃげた自転車と、それに圧し掛かるような形で大型トラックが止まっていて、そこを数人の警察官が現場検証をしている。離れていてもアスファルトに大きく広がった血の跡がはっきりと見てとれる。
黒いジーンズに青いトレーナー姿の少年は無言のままにその場に蹲り、じっとそのひしゃげた自転車を見つめている。寂しそうな眼差し、そして、悔しそうに結んだ唇。だが、警察官も周囲を囲む野次馬たちも、誰もその少年の存在に気づきもしない。
(ああ……そうか)
私はその少年が事故で死んだのだと気づいた。誰もあの少年に気づくはずもない。あの少年は他の人たちに見えるはずもない。
「事故かぁ」
その声に私ははっとして振り返った。
一人の男が立っていた。ベージュのズボンを履き、白いワイシャツに濃いブルーのネクタイをしている。キャラメル色の鞄を右手に持ち、左手にはジャケットを持っている。ワイシャツの袖を捲くっているため、右手の手首に包帯をされているのが見えた。
事故を見つめるその男の横顔はどこか物悲しく感じられた。
その男は私へ向き直ると、さも珍しそうな表情で私の顔を見た。
「ねえ、何が見えるの?」
男は私に顔を向けると訊いた。
「え……何って?」
「その君の視線の先に何が見えるの? ただ事故を見ているようには思えないんだけど」
私に向かって彼はもう一度訊いた。
「いえ……何も……」
私は首を振った。言っても信じられるはずもない。
「そうかな? 君の視線は僕たちの目にはとらえられないものを見ているように思えたんだけど」
「どうして?」
私は驚いて彼の顔を見た。
「その顔はやっぱり当たりだね?」
彼は嬉しそうに笑った。
「ひょっとしてあなたにも見えるんですか?」
「いや、残念だけど僕には見ることが出来ないよ。けど、君の表情からそこに平凡な人間には見ることの出来ないものが見えるんじゃないかって気がしたんだ」
彼は『平凡な人間』という言い方をした。『普通の人間』ではなく『平凡な人間』。その言葉が新鮮だった。
「あなたは誰ですか?」
「僕は浅川圭吾。高校の教師をしてる」
「先生?」
その姿はあまり教師らしくは見えない。
「……あ、いや……実を言うと、ついさっき辞めてきたとこだから……本当は無職ってことになるかな」
浅川はそう言って頭を掻きながら笑った。「まあ、もともと特別なりたかったわけでもないし、辞めるにはちょうど良かったんだけどね」
「はぁ……」
私には彼が何を言っているのか理解できなかった。
「それで――? 何が見えるの?」
穏やかな笑顔で浅川さんは私に訊いた。
不思議と警戒感が沸いてこない。
(話してみてもいいかもしれない)
そんなふうに思ったのは生まれて初めてのことだった。私は本能的に浅川さんを信じられる存在だと感じ取った。
私は彼にその少年のことを話した。彼は私の話を聞きながら、まるで想像しようとするかのようにその少年がいる方向をじっと見つめていた。
事故現場には一台のパトカーが到着し、そこからスーツ姿の若い男が姿を現した。慌てたように事故現場に走りよる。おそらく死んだ少年の父親なのだろう。
「君は死んだ人の姿なら全て見ることが出来るの?」
浅川さんの問いかけに私は首を振った。
「その時々です。事故現場であっても見えることは少ないです」
「見える時と見えない時……何が違うんだと思います?」
「……さあ……わかりません」
「ひょっとしたら死んだ人の想いの違いかな?」
「想い?」
「彼は何を伝えたいんでしょう?」
ぽつりと浅川さんが言った。
「どういう意味ですか?」
「君にその姿が見えるということは、死んだ少年の魂がそこに留まっているわけでしょ? なぜ、彼の魂はあそこに留まっているんだろう……誰かに何かを伝えたいことがあるんじゃないかな?」
「さあ……」
私は言葉を濁した。今までそんなことを考えたことはなかった。
(あの子は何か誰かに話したいことでもあるんだろうか)
私は改めて少年の姿を眺めた。
少年は父親の顔をひしゃげた自転車を見ることを止めると、すっくと立ち上がり父親がいる方へと近づいていった。もちろん、父親がそれに気づくことは無い。盛んに警察官と何か話をしている。その傍らで少年がじっとその父親を見詰めている。いや……見つめているというよりも――
(睨んでる?)
その少年の表情には明らかな憎悪の色が浮かんでいる。
「あの子……父親のことを恨んでる……」
ぽつりと私が呟いた瞬間、まるでその声が聞こえたかのように少年の視線が私に向けられた。
(私を見てる)
思わずその少年から視線を外そうとした。けれど、出来なかった。少年の瞳のなかに映る何かが私を捕らえて放さない。明らかに私に何かを訴えている。
「言ってごらん。何が見えるの?」
浅川さんが私に言った。
少年はじっと私を見つめている。寂しそうな眼差し、その少年の手がゆっくりと上がった。右手で警察官と話す父親を指差し、そして、左手はパトカーを指差している。
(パトカー?)
あのパトカーのなかには大型トラックの運転手が尋問を受けているはずだ。
「まさか……二人は知り合いなの?」
私の言葉に少年が小さく頷いたような気がした。
「どういうこと?」
私は浅川さんへ顔を向けた。
「あの父親とトラックを運転していた人は知り合いなのかもしれません」
「そう少年が言ってるの?」
「声は聞こえません……でも、そんな感じがするんです」
すると浅川さんは右手をそっと額に当てた。そして、ほんの少しの間俯いて何かを考えた後、顔を挙げた。
「わかったよ。僕の知り合いに刑事さんがいる。あとで話をしてみよう」
そう言ってさわやかに微笑んだ。
それが私と彼との出会いだった。




