「子爵家の娘が、伯爵家のことに口を出すな」と仰るので、黙って見ておりました ~処分は、お義父様が先にお決めでした~
「子爵家の娘が、伯爵家のことに口を出すな」
婚約者はグラスを持ったまま、私のほうを見もせずにそう告げた。
夜会の壁際である。楽の音が大きいから声を落とす必要もなかったのだろうし、落とす気もなかったのだろう。
「承知いたしました」
「分かればいい。君は余計なことを考えずに、僕の隣で笑っていればいいんだ。セリーヌ嬢は幼いころからの付き合いで、家同士の縁もある。君が気にするようなことは何もないし、仮にあったとしても、それは君が気にすることではない」
「はい」
「そういうところだよ、リディ。君は返事だけは早い」
ジョスラン様はそれだけ言って、セリーヌ様のいる窓際へ戻っていった。背中が、もう私を見ていなかった。
私が申し上げたのは一言だけだったのだ。夜会でひとりの令嬢と踊り続けるのは、婚約者としての私の立場を悪くします、と。それも、人の耳のない壁際を選んで、声を低くして。
それに対する返事が、口を出すな、である。
(分かりやすい方だこと)
私はヴァロワ子爵家の長女リディアーヌという。父は代々の領地で麦を作り、麦を売り、売った金で水路を引いて、また麦を作った人で、社交界にはほとんど顔を出さない。その代わり、王都の穀物商で父の名を知らない者はいない。信用というものを、父は三十年かけて麦の束のように積み上げたのである。
相手のオーブリー伯爵家は、格で言えば一つ上になる。一つでも、上は上である。古い家で、領地も広く、代々の当主は王宮の役職を持っていた。ただし、その広い領地の実りを買い叩かれない商いの道を、伯爵家は持っていなかった。だから父の信用を、伯爵家は縁組という形で買ったのだ。私はその縁の、いわば担保である。
恋ではない。それは承知の上で嫁ぐつもりでいた。
恋ではないが、だからといって黙って笑っているだけの仕事だとも思っていなかった。担保には担保の務めがある。相手の家の格を落とす振る舞いを見れば、それを言うのも務めのうちだろうと、そう思っていたのだ。
思っていたのは、今夜までである。
扇を開いて、窓際を見た。セリーヌ様が笑っている。ジョスラン様も笑っている。絵に描いたような二人で、絵に描いた人が実際にいたのだなと思った。
その二人の後ろで、伯爵家の家令ギヨームが、手帳に何か書きつけていた。
夜会の最中に家令が手帳を開くというのは、少なくとも私の実家では見たことがない。
私はそれを見て、何も言わなかった。口は出さないと、たったいま申し上げたばかりだったからである。
◆
口を出さない、と決めるのは簡単だった。守るほうが難しい。これは一週間で分かった。
翌週、伯爵邸の昼食の席である。
「父上、来月の狩りにはセリーヌ嬢の父君もお招きしたいのですが」
「好きにしろ」
お義父様は肉を切る手を止めない。短い方である。私が婚約者としてこの家に出入りするようになって半年になるが、この方がひと息で言い終わらない長さの台詞を喋ったのを聞いたことがなく、使用人の話では、先代の葬儀の弔辞もひと息だったそうだ。
「では、そのように。リディ、君も来るだろう」
「はい」
「セリーヌ嬢と並んで座ることになるが、構わないね。君は口を出さないと言った」
「はい」
ジョスラン様は満足そうに頷いて、ギヨームに招待状の手配を命じた。ギヨームは一礼して、手帳を開いた。昼食の最中に、である。お義父様は、そちらを見なかった。見なかったというより、見る必要がないという見なさ方だった。
(……この家、何かあるわね)
思ったが、口には出さない。出さないと決めたのだから。
食後の茶の席で、ジョスラン様が小箱を開けた。
「セリーヌ嬢の誕生日に。王都のルブラン商会から取り寄せた」
青い石だった。大きさから言って、私の持参金の半分くらいは軽く飛んでいる。
「リディ、どう思う」
「口は出しません」
「意見を聞いているんだ。装飾品の趣味くらい、子爵家にもあるだろう」
「きれいな石だと思います」
「それだけか」
「それだけです」
ジョスラン様は鼻で笑って小箱を閉じた。笑われたのは私だが、笑われて困るのは私ではない気がして、紅茶を一口飲んだ。
「払いは」
お義父様だった。茶碗を置かずに訊いている。
「父上の名で。いつものように」
「そうか」
それきりである。そうか、の一語でお義父様は茶を飲み終え、席を立った。ギヨームは茶の席には手帳を持ってきていなかった。代わりに、石の大きさを一度だけ見て、目を伏せた。
あれは値を覚える顔だった。私の実家の番頭が、客の顔と借金の額を一緒に覚えるときの顔である。
午後、書庫で本を探していると、扉が半分開いた。
「あ、……すみません。いらしたとは」
ノエル様だった。ジョスラン様の弟で、十九歳。背は兄より高いのに、いつも兄の後ろにいる。後ろにいるので、顔をまともに見たのは半年でこれが三度目くらいだった。
「どうぞ。私はもう出ますので」
「いえ、あの。……リディ嬢は、兄のこと、何も仰らないのですね」
「口を出すなと言われましたので」
「兄が」
「はい」
ノエル様は扉の取っ手を握ったまま、少しのあいだ何か考えていた。考えてから言う人なのだ、と思った。兄は言ってから考える人で、お義父様は考えてから言わない人である。
「……そうですか」
「ノエル様は、何も仰らないのですか」
「僕は、弟ですから」
それだけで、ノエル様は書庫を出ていった。
その日、私は書庫に手袋を忘れた。気づいたのは子爵家に帰ってからで、翌週には忘れたこと自体を忘れていた。薄い灰色の、片方だけ。
◆
狩りの日、セリーヌ様は私の隣に座った。並んで座れと言われたので、並んで座ったのである。
「リディ様って、おとなしいのね。ジョスラン様から聞いていたとおり」
「そうですか」
「わたくし、黙っている人って苦手ですの。何を考えているか分からなくて。……ねえ、わたくしのお父様が、オーブリー家の森を買ったの。ご存知?」
「いいえ」
「北の森。狩り場の向こうの。ジョスラン様がね、次期当主の権限で、って。安くしてくださったのよ。将来は一つの家になるんだから、って」
セリーヌ様は本当に嬉しそうだった。悪意はない。悪意がないから、こういうことを初対面に近い相手に、焼き菓子を摘みながら言える。悪意のある人は、こういうことを言わない。言わずに、ただ森を手に入れる。
「そうですか」
「それだけ?」
「口は出しませんので」
セリーヌ様は首を傾げて、焼き菓子を取った。
向かいの席で、ギヨームが給仕の列から一歩下がり、手帳を開いていた。
私は焼き菓子を取った。杏のものだった。杏は好きなので、二つ取った。黙っている者の特権は、食べていても誰も気にしないことである。三つ目に手を伸ばしかけて、さすがにやめた。
その夜、伯爵邸の客間に泊まることになった私のところへ、ギヨームが来た。
「ヴァロワ子爵令嬢様。お休み前に、一つだけ伺ってもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「本日、セリーヌ様から、森のお話を聞かれましたか」
「聞きました」
「何かお気づきの点は」
私は寝台の端に座ったまま、ギヨームの顔を見た。型どおりの顔だった。型どおりの顔の人が、型を外れて夜に客間へ来ている。これは何かを確かめに来たのであって、何かを教えに来たのではない。
「口は出しません」
「……左様でございますか」
ギヨームは一礼した。扉の前で、もう一度振り返った。
「失礼ながら、それは、賢明なご判断かと存じます」
扉が閉まった。
お義父様に言うことも、考えなかったわけではない。だが、お義父様は家令が昼食の席で手帳を開いても、そちらを見ない方である。見ないというのは、見なくても知っているということだ。知っている人に言うのは口出しではなく念押しで、念押しは口出しより性質が悪い。父に手紙で知らせることも考えたが、父は知れば麦の束を担いで乗り込んでくる人で、それこそ子爵家が伯爵家に口を出す最たるものになる。
だから、黙った。黙る相手を、二人増やしただけである。
その夜、客間の窓から中庭を挟んで、お義父様の書斎の灯りが見えた。私は何度か目を覚ましてそれを見たのだが、朝になって鳥が鳴き始めても、まだ消えていなかった。
◆
村長が来たのは、狩りの翌週だった。
玄関ホールで、帽子を両手で持って立っていた。農夫の帽子というものは、持っている人の身分を帽子自身が知っているような持たれ方をする。
「若様。北の森の件で、村の者が」
「森は売った。もう伯爵家のものではない」
「ですが、薪を取っておりましたので。冬の分を。今までは伯爵家のお許しで」
「新しい持ち主に頼め」
「あちらは、森に柵を立てると仰いまして」
「だから何だ。お前は村長だろう。村の薪は村で何とかしろ。この家は慈善院ではない」
村長は帽子を握り直した。
「若様。冬は、来月でございます」
「知っている!」
声が、ホールに跳ね返った。
私は階段の上にいた。手すりに手を置いて、下りるつもりだったのを、やめた。
ジョスラン様が、私を見上げた。
「リディ。何か言いたそうだな」
「いいえ」
「言ってみろ。子爵家では、こういうとき何と言う」
「口は出しません」
「……役に立たない女だ」
ジョスラン様は村長の横を抜けて、出ていった。
役に立たない女。
言われた瞬間に、腹の底で何かが煮えた。煮えたのだ。麦を作って水路を引いた家の娘に向かって、薪の算段ひとつできない男が、役に立たないと言ったのだ。言い返す言葉は十も二十も喉まで来ていて、そのどれもが、たぶん正しかった。
正しかったが、飲んだ。
飲んで、階段を下りた。下りて、村長の前を通って、庭に出た。
何も言わなかった。言わない代わりに、庭の端で立ち止まって、振り返った。
玄関の脇から、ノエル様が出てきた。村長に何か言って、帽子を持つ手を軽く叩いて、厩のほうへ歩いていった。
夕方、ノエル様が馬で出ていくのを、書庫の窓から見た。村の方角だった。帰ってきたのは、夜だった。
翌朝の食卓で、ノエル様は何も言わなかった。私も、何も言わなかった。お義父様は、一度だけノエル様を見て、パンをちぎった。
それで全部である。
◆
村長の日から、さらにひと月が過ぎた。口は出さないままである。
ジョスラン様はセリーヌ様を伯爵邸の晩餐に呼ぶようになり、私は週に二度、その向かいに座った。ジョスラン様が庭師を替えたときも、セリーヌ様の家の馬車を伯爵家の紋で飾らせたときも、私は黙っていた。
黙っているのは、思ったより楽だった。
言いたいことを飲み込む、というのではないのだ。言いたいことが、だんだん無くなっていく。腹の底の煮えたものが、日ごとに冷めて固まって、やがて石になって沈む。あの方の言葉は、口を出すなではなく、見るな、だったのかもしれないと思うようになった。口を閉じていれば、そのうち目も閉じるだろうと。
それでも、見てはいた。
ギヨームの手帳は、このひと月で二冊目になった。
お義父様は、相変わらず短い。
ノエル様は、相変わらず兄の後ろにいる。村の方角へ馬で出る夕方が、あれから二度あった。
私は何も言わなかった。誰にも。
父への手紙には、一行だけ書いた。元気です、と。
父の返事も一行だった。
――『黙っている娘は、何かを見ている娘だ。見たものは、覚えておけ』
麦で信用を築いた人の手紙は、麦の値段のように短い。
◆
婚約破棄の宣言は、晩餐の席だった。
お義父様、ジョスラン様、ノエル様、セリーヌ様、私。給仕の後ろにギヨーム。スープが下げられたあと、ジョスラン様が立ち上がった。
「父上。この場で申し上げます。リディとの婚約は、解消いたします」
お義父様は、パンをちぎった。
「理由は、家格です。子爵家の娘ではオーブリー家の女主人は務まらない。半年見てきて、確信しました。彼女は何も言わない。何も言えない。女主人には、家を動かす口が要る」
セリーヌ様が、口元を隠した。
「後任には、セリーヌ嬢を。両家の縁も深く、父君との森の取引も既に済んでいます。これは僕一人の考えではなく、次期当主としての判断です」
ジョスラン様は私を見た。
「リディ。何か言うことは」
「承知いたしました」
「……それだけか」
「口は出すなと、仰いましたので」
ジョスラン様の眉が動いた。村長を怒鳴ったときの顔とは違う。怒鳴る相手がいない顔である。黙っている相手は、殴れないのだ。殴る理由を、相手が一つもくれないから。
「父上。お聞きになりましたね。この女は、婚約を解消すると言われても、承知の一言です。それで伯爵夫人が務まりますか」
お義父様は、ちぎったパンを口に入れた。噛んで、飲み込んで、言った。
「食事を続けよう」
「父上」
「座れ」
ジョスラン様は座った。
セリーヌ様は、隠した口元をそのままに、お義父様とジョスラン様を見比べていた。晴れやかな顔ではなくなっていた。ノエル様は、スープの皿が下げられた場所を見ていた。
私は、次に運ばれてきた魚を食べた。塩が少し強かった。
食後、客間へ戻る廊下で、ギヨームが待っていた。
「ヴァロワ子爵令嬢様。明朝、旦那様が書斎にお越しいただきたいと」
「私を、ですか」
「はい。お嬢様お一人を」
客間の扉を閉めて、椅子に座ったところで、扉が叩かれた。ギヨームではなかった。
「リディ様。……入っても」
セリーヌ様だった。髪が少し崩れている。晩餐のときには崩れていなかった。
「どうぞ」
「わたくし、分からないの。お父様から今、手紙が来て。森のお金が戻ってきたって。伯爵様から。契約は初めから無効だって」
「そうですか」
「ジョスラン様は、何も教えてくださらない。部屋に行ったら、今夜は話せないと。……リディ様、あなた、何かご存知?」
「口は出しません」
セリーヌ様は、私の向かいの椅子に腰を下ろした。座ってよいかとは訊かなかった。訊く習慣が、たぶん無い方なのだ。無いまま十八になれる家に生まれた方なのだ。
「狩りの日、わたくし、あなたに言ったわね。黙っている人は苦手だって」
「はい」
「……今は、黙っている人のほうがよかったのかもしれないと思うわ。わたくし、ずっと喋っていたから。森のことも、いただいた石のことも、全部。喋った分だけ、お父様が」
声が、そこで切れた。
私は立ち上がって、水差しから水を注いで、セリーヌ様の前に置いた。言葉は添えなかった。添える言葉を持っていなかったのではなく、持っていたが、どれも私の口から出れば口出しになる。
セリーヌ様は水を飲んで、少し落ち着いて、私を見た。
「あなた、意地悪じゃないのね」
「存じません」
「黙っているのは、意地悪だと思っていたの。……違ったのね」
セリーヌ様は立ち上がって、扉のところで振り返った。
「わたくし、明日帰ります。ジョスラン様には、言わずに」
「そうですか」
「あなたと同じ。口は出さないで帰るわ」
扉が閉まった。崩れた髪を、直さずに行った。
◆
書斎は、本と、紙の束と、灯りの匂いがした。あの夜、朝まで消えなかった灯りの匂いである。
「座りなさい」
お義父様は机の向こうにいた。ギヨームが壁際に立ち、手帳を二冊、机の端に置いた。
「リディ嬢。あなたに一つ、礼を言う」
「……何のことでしょう」
「黙っていてくれたことだ」
お義父様は、机の上の封書を一通、私のほうへ滑らせた。王都の、貴族院の封蝋だった。
「ジョスランの廃嫡と、ノエルへの家督移譲。貴族院の認可は、昨日届いた。申請を出したのは、あの夜会の三日前だ」
夜会の、三日前。
つまりあの夜、私が壁際で小さく苦言を言ったとき、この家はもう息子を切る紙を王都に送り終えていたのである。私は何も知らずに、済んだ話に口を出していたのだ。
ひと息では終わらない台詞を、私はこのとき初めて聞いた。
「理由は、森ではない。ギヨーム」
壁際の家令が、一歩前に出た。
「若様は昨年の春より、旦那様のお名前で王都の商人に借財を重ねておられました。宝石商ルブラン、馬商、それにセリーヌ様のお家への付け届け。合わせて、この領地の麦の三年分に当たります。私が商人を一軒ずつ回り、証文を写し、全部を突き止めましたのが夏の終わりでございます。旦那様は、その翌週に申請をお出しになりました」
昼食の席の、父上の名で、いつものように、という一言が、そういう意味だったのだ。
「……森の件は」
「狩りの夜に知った」
お義父様が言った。
「認可が下りる前に当主が次期当主の契約を無効だと公に言えば、家の中で争っていると世間に知らせるようなものになる。だから金は裏で用意し、村には薪の手配をさせた。ノエルにだ」
馬で出ていった夕方の、あとの二度はそれだったのだ。
「夜会の晩、あなたがあれに苦言を言ったのは、ギヨームから聞いた。正直に言えば、まずいと思った」
「まずい、とは」
「あなたが口を出し続ければ、廃嫡の理由が『婚約者の讒言』になる。あれはそう言い訳をする。周りもそう聞く。子爵家の娘が伯爵家の嫡男を陥れた、という話のほうが、あれが借財を重ねて森を勝手に売ったという話より、世間には面白いのだ」
お義父様は手帳を一冊、開いた。
「だが、あなたは黙った。ギヨームが全部書いている。日付と、場所と、あれが何をして、あなたが何を言わなかったか。四十一ある。一日に二つ書いた日もある」
お義父様は開いた頁を、私のほうへ向けた。
――『狩り。令嬢セリーヌ、北の森の売買を口外。若様の権限にて売却と述べる。ヴァロワ子爵令嬢、口は出しませんと答える。以上』
以上、の二文字が、妙に太かった。
「四十一のうち、四十が、以上で終わる」
「……一つだけ、違うのですね」
「そうだ。村長の日だ。あなたは何も言わずに庭へ出た。ギヨームはそれを『退席』と書いた。あれが唯一、あなたが動いた日だ。口ではなく、足で」
「……私が何を言わなかったか、が証拠になるのですか」
「なる。来週の親族会議で、必要なら貴族院の聴聞で、この処分があれ自身のものだという証になる。あなたが一言でも言っていれば、あれはその一言に全部をぶら下げた」
私は封書を見た。開ける気にはならなかった。
「森の件は」
「次期当主に売買の権限はない。契約は無効だ。セリーヌ嬢の父君には昨日、金を返した。父君は黙って受け取った。あの家も、娘が何を言い触らしていたか、知らなかったようだ」
「ジョスラン様は」
「今朝、話した」
お義父様は、それ以上言わなかった。沈黙を埋めたのは、ギヨームだった。
「若様は、お嬢様が吹き込んだのだと仰いました。旦那様は手帳をお見せになりました。若様は、四十一件をお読みになって、その場では何も仰いませんでした」
黙っている相手は、殴れない。晩餐で私が思ったことを、あの方はもう一度、手帳の前で思い知ったのだろう。
「リディ嬢」
「はい」
「あなたに、口を出してもらいたいことが一つある」
お義父様が、机の上で両手を組んだ。
「ノエルとの婚約だ。受けるか、断るか。これは伯爵家のことではなく、あなたのことだ。だから、口を出すのはあなたの権利で、私にはない」
私は、すぐには答えなかった。答えなかったのは、ふた月、答えない癖がついていたからではない。書庫の扉に手をかけたまま、僕は弟ですから、と答えた人の顔を思い出していたからだ。
「少し、考えさせてくださいませ」
「よろしい。考えるのも、あなたの権利だ」
◆
書斎を出たところで、ジョスラン様が待っていた。
廊下の壁に背を預けて、腕を組んで。顔色は、昨夜の晩餐よりも悪かった。
「お前か」
「何がでしょう」
「とぼけるな。父上に何を吹き込んだ。ギヨームの手帳は見た。四十一。お前が何を言わなかったか、だと。笑わせる。言わなかったことが、どうして証拠になる」
「存じません。私は口を出しておりませんので」
「それだ」
ジョスラン様が壁から離れた。
「それが一番の口出しだ。お前が黙っていたから、僕が一人で喋っているように見えた。お前が何も言わないから、全部僕の言葉になった。分かっていてやったんだろう」
私は、少し考えた。考えて、そのまま答えた。
「いいえ。仰ったとおりにしただけです」
「……嘘だ」
「嘘ではございません。口を出すなと仰いました。出しませんでした。それだけです」
ジョスラン様は何か言いかけて、やめた。
黙っている相手は、殴れない。殴れないことを、あの方はいま、三度目に知っている。
「……お前のような女に、伯爵夫人は務まらない」
「はい。ですから、務めません」
ジョスラン様は、私の横を抜けて、廊下の向こうへ歩いていった。足音が、途中で一度、止まった。振り返ったのかもしれない。
私は振り返らなかった。見なくても分かることがある。ふた月で、それだけは覚えた。
◆
書庫で、ノエル様を見つけた。
正確には、ノエル様が私を待っていた。立ったまま、本棚に背を預けて。
「リディ嬢」
「はい」
「父から、聞きました。……兄の席に座らされるのは、僕のほうです。あなたが、兄の代わりに何かを引き受ける必要はない」
「存じております」
「……村へ行ったのを、見ておられましたか」
「書庫の窓から。初めの日と、あとの二度」
「黙っていてくださった」
「口は出しませんので」
「僕も、です。初めの日は、僕が勝手に行きました。兄に見つかれば止められるので、誰にも言わずに。二度目からは父に言われて、薪の手配を。……あなたが窓にいるのは、二度目から気づいていました。それで、行きやすくなりました」
見られていることが、行きやすさになる人もいるのだ。私は見ることしかしていなかったのに、それが誰かの馬の脚になっていたというのは、少し不思議な気持ちだった。
「それでも、もし」
ノエル様は言葉を切って、上着の内側から何かを出した。
手袋だった。薄い灰色の、片方。
「……あの日、書庫に落ちていました。お返しするつもりで、ずっと。でも、お話しする機会が、どうしても」
ふた月近く。
「それで、ずっとお持ちに」
「はい」
「兄上の後ろに立ちながら」
「……はい」
私は手袋を受け取った。ノエル様は、受け取られた自分の手を、しばらく見ていた。
「ノエル様」
「はい」
「口を出します。一つだけ」
ノエル様が顔を上げた。
「返すのが、遅うございます」
ノエル様は、一瞬ぽかんとして、それから、笑った。笑うと兄に似ていなかった。
「……すみません。次からは、早くします」
「次からは、落としません」
「それは、困ります」
困る方である。
私は手袋を嵌めた。片方だけ。
もう片方は、子爵家の引き出しにある。取りに帰って、戻ってくればいい。それだけのことだった。
◆
――それからのことを、少し。
ジョスラン様は領地の北の端、森の向こうの小さな館に移った。セリーヌ様は来なかった。父君が許さなかったのだと聞いたが、セリーヌ様自身が行かなかったのだとも聞いた。どちらでもよい。
ノエル様が当主を継いだのは、冬の初めだった。
継いで最初にしたのは、村長の家へ謝りに行くことで、二番目にしたのは、ギヨームの手帳を書庫の鍵つきの棚に収めることだった。
村長の家には、私も同行した。村長は帽子を持って出てきて、ノエル様に頭を下げ、私を見て、もう一度下げた。
「あの日、庭へ出られた方で」
「はい」
「若様が怒鳴られたとき、階段の上で、下りかけて、おやめになった。それから何も仰らずに下りて、庭に出て、振り返られた。……あれで、村の者は分かりました。この家の中に、若様の側でない方がおられると」
「口は出しませんでしたが」
「出さない人がいるのが、分かればよかったので」
帰り道、ノエル様は手綱を持ったまま、しばらく黙っていた。
「……あなたは、何もしなかったと仰いますが」
「しておりません」
「村の者は、そう思っていません。僕も、そう思っていません」
「では、何をしたのです」
「見ていました。見られているから、僕は村へ行きやすかった。黙っていてくれたから、父は認可を待てた。それは、何もしていないとは言いません」
私は答えなかった。答えない癖は、まだ抜けていない。抜くつもりも、今のところない。
「燃やさないのですか」
手帳を棚に収める日に、そう訊いた。
「燃やしません。……僕が同じことをしたとき、あなたが黙って見ていられるように」
「黙って見ているつもりは、もうございません」
「はい。だから、怖いです」
怖がる方である。
父は婚約の報せに、またしても一行で返してきた。
――『見ていたものを、今度は言ってやれ』
言うつもりはある。ただ、相手が怖がるので、少しずつにしている。夫には。
何年か経った。
伯爵邸の晩餐で、私は今でもあまり喋らない。話し方が変わったのは、お義父様のほうだった。ひと息で足りない日が増えて、孫が生まれた年の冬には、茶が冷めるまで喋った。ギヨームがそれを手帳に書いた。何冊目かは、もう数えていない。
北の端の館からは、年に一度、手紙が来る。ジョスラン様の字で、短く、近況だけが書いてある。返事はノエル様が書き、私は最後に一行だけ足す。あの方に口を出すのは、年に一度、その一行だけと決めている。
数えられた女は、今も数えている。舅がひと息で足りない日と、茶が冷めるまで喋った日と、息子が初めて「いや」と言った日を。言える子に育てるつもりである。
手帳は、まだ鍵のかかる棚にある。
私の分は、引き出しの奥に。
(了)
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