第九話 湯気越しの約束、五月の地図
自販機食堂の店内は、外の冷え込みが嘘のように、独特の温かさと油の匂いに満ちていた。
ずらりと並んだ色褪せたオレンジ色の筐体。紬は、その中でも一際存在感を放つ「天ぷらうどん」の自販機の前に立った。コイン投入口に百円玉を数枚投げ込むと、ブォーンという低い唸り音と共に、ニキシー管のカウンターが秒数を刻み始める。
「見て紬、二十五秒だって。早いよね」
真波が隣で、トーストサンドの自販機から出てきた熱々のアルミホイル包みに格闘している。
チン、という澄んだ音と共に、プラスチックの容器に入ったうどんが取り出し口に現れた。
「……熱っ」
紬は慎重に容器を取り出し、カウンターへ運んだ。
少しふやけたかき揚げと、濃いめのつゆ。割り箸で麺を啜ると、チープだけれど芯から温まる味が口の中に広がる。
「美味しい……」
「でしょ? この不器用な感じが、50ccでトコトコ来た私たちにちょうどいいんだよ」
真波がチーズのとろけたトーストを頬張りながら笑う。
窓の外には、並んで停まった銀色のCL50と緑のカブが見える。
この数時間前まで、自分は桐生の狭い世界の中にいた。けれど今は、こうして自力で街の外に出ている。うどんの湯気の向こう側で、紬は自分の世界が少しずつ、けれど確実に外側へと押し広げられているのを感じた。
「ねえ、紬。……次は、もっと遠くに行かない?」
真波がバッグから一冊のツーリング雑誌を取り出し、ページを開いた。
「五月のゴールデンウィーク。……草津温泉」
「草津……?」
紬は箸を止めて、真波が指差した写真を見つめた。
もうもうと湯煙が上がる湯畑。エメラルドグリーンの温泉。ここからなら、軽く往復で百キロは超えるだろう。今の二人にとっては、大冒険と言ってもいい距離だ。
「今のままじゃ無理かもしれないけど、あと一ヶ月ある。毎日学校に行って、バイトして、もっとこの子たちと走って練習すれば……行けると思わない?」
真波の瞳には、一切の迷いがなかった。
紬は再び窓の外、自分のCL50を見た。
錆を落とし、磨き上げ、ようやく目覚めた銀色の相棒。この子と一緒に、あの高い山の向こう側にある景色を見てみたい。その想いが、不安を静かに塗り替えていく。
「……行こう。草津」
「言ったね! よし、作戦会議だ。バイト代、あといくら貯めればいいかな?」
二人は、使い込まれた地図と雑誌を広げ、次の旅の航路を引き始めた。
一人暮らしの部屋に帰ってからも、もうあの静寂に怯えることはないだろう。紬の頭の中には、五月の爽やかな風と、あのエメラルドグリーンの湯気が、鮮やかな予感として渦巻いていた。




