第八話 土曜日の朝、駅前六時
土曜日の朝。いつもなら二度寝を楽しんでいるはずの時間だが、紬はアラームが鳴る十分前にパチリと目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、街は深い静寂に包まれている。一人暮らしの部屋には、冷蔵庫の低い唸り声だけが響いていた。けれど、その静けさはもう寂しいものではなかった。
紬は手早く身支度を整え、昨日用意しておいたデニムのジャケットを羽織る。
「……よし」
玄関を開けると、朝の桐生の空気は驚くほど鋭く、冷えていた。けれど、その冷たさが逆に心地よい緊張感を与えてくれる。
ガレージのシャッターを上げ、銀色のCL50を引き出す。
キーを差し込み、ニュートラルランプの緑を確認。右足に力を込めてキックペダルを踏み抜くと、ドッドッドッという力強い鼓動が冷えた空気の中で目覚めた。
待ち合わせの桐生駅前には、すでに真波のカブが止まっていた。
「紬、おはよー! ぴったり六時だね」
ヘルメットのシールドを上げた真波が、元気よく手を振る。
「おはよう、真波。……やっぱり朝は寒いね」
「走ればすぐ熱くなるって! それじゃ、出発。私が前を走るから、しっかり付いてきてね」
二台の原付が、静かな駅前通りを滑り出した。
街灯が消え、街がゆっくりと朝の色に染まっていく。最初の難関は、国道122号線から大間々方面へ抜ける道だ。
土曜日の早朝とはいえ、大型のトラックや仕事に向かう車が、50ccの二人を猛スピードで追い抜いていく。
(……っ、怖い!)
バックミラーを埋め尽くす巨大なトラックの影。追い抜かれる瞬間の強烈な風圧に、CL50の細い車体がふわっと浮きそうになる。
紬はハンドルを必死に握りしめた。けれど、その数メートル先には、トカカカッと白い煙を吐きながら元気に走る真波の背中がある。その姿を見るだけで、握りしめた手に不思議と力が戻った。
「紬、ここから裏道入るよ!」
真波が合図を出し、信号のない細い脇道へと進路を変えた。
国道を外れると、急に静寂が戻ってきた。赤城の裾野へと続く、緩やかな登り坂。左右にはまだ桜の残る木々と、古い石垣が続いている。
「……すごい」
ヘルメットの中で、紬は小さく呟いた。
自転車で死に物狂いで漕いでいた坂道を、今は指先ひとつの操作で、風のように駆け抜けていく。エンジンから伝わる熱が、冷えた足元を心地よく温めている。
やがて、目的地である赤城の麓、国道沿いの「自販機食堂」が見えてきた。
昭和の時代から取り残されたような、独特な佇まいの建物。
スタンドを立て、エンジンを止める。
チチチッ、と冷えていくエンジンの金属音が響く中、紬はヘルメットを脱いで、深く、深く息を吸い込んだ。
「……着いたね、紬」
「うん……。本当に、来られた」
指先は感覚を失うほど冷えていたけれど、紬の心には、今まで感じたことのない確かな達成感が満ちていた。
誰の手も借りず、自分の相棒と辿り着いた、初めての場所だった。




