第七話 昼休みの航路図、放課後のガソリン
桐生高校の四時間目の終わりを告げるチャイムは、戦いの合図だ。
教員の「以上」という言葉を遮るように、購買のパンを求めて廊下を走る生徒たちの騒がしさが響き渡る。そんな喧騒を横目に、紬はいつものように屋上へ続く渡り廊下のベンチを陣取っていた。
「紬! お待たせ。今日は購買の焼きそばパン、奇跡的にゲットしたよ!」
真波が、勝利の証のようにパンの袋を掲げて走ってくる。紬は自分で握った不格好なおむすびを出しながら、少しだけ口角を上げた。
「真波、声が大きいよ」
「いいのいいの。それより見てよこれ!」
真波がスマホの画面を突き出してきた。そこには地図アプリで引かれた、複雑に折れ曲がる青い線。
「マスターに教わった裏道ルート。大間々の信号を避けて、この細い道を通ればトラックに煽られずに済むって。カブならこういう道、得意だしね」
紬はおむすびを頬張りながら、その画面を覗き込んだ。
「……坂道、きつくない? 私のCLはいいけど、真波のカブは三速でしょ?」
「なめないでよ、カブの登坂能力を! おじいちゃんがこれで山道を走ってたんだから。それに、いざとなったら紬が後ろから押してよ」
「そんなの無理」
二人の笑い声が、春の陽気の中に溶けていく。
周りの女子たちは、週末の服や最近の推しのアイドルの話に花を咲かせている。以前の紬なら、その輪にも入らず、ただ透明な存在として空を眺めているだけだった。けれど今は、指先に微かに残る「昨夜バイクを磨いた時の油の匂い」が、自分が一人ではないことを教えてくれる。
放課後。真波と別れた紬は、喫茶店アンカーへと向かった。
「……いらっしゃい」
マスターの声と共に、深いコーヒーの香りが体を包む。
「マスター。明日、赤城の麓まで行くルート、真波と相談しました。裏道を通ることにします」
紬がカウンターを拭きながら報告すると、マスターはネルドリップの手を止めずに短く答えた。
「……そうか。あの辺の風は、午後になると急に強くなる。煽られて対向車線にはみ出すなよ。50ccは軽い。風に食われるぞ」
「はい、気をつけます」
バイトが終わる頃には、足はパンパンに張っていた。けれど、給料袋に溜まっていく数字を想像すると、疲れは心地よい達成感に変わった。
帰り道、近所のガソリンスタンドへ寄り、携行缶にガソリンを詰めてもらう。
マンションの隣、源さんのガレージ。紬はそっとシャッターを上げ、暗がりに眠るCL50の前に立った。
「……明日だよ」
ドクドクと音を立ててタンクにガソリンを注ぐ。それは、紬が自分の労働で勝ち取った「自由の燃料」だ。
ガレージの外から、パパパパッという軽い排気音が近づいてきた。
「紬ー! 準備万端?」
カブに乗った真波が、顔を出した。
「真波、夜なのに」
「居ても立っても居られなくてさ。おじいちゃんが『これ持っていけ』って、古いネットとゴム紐くれたんだ。これで荷物もバッチリだよ」
銀色のCL50と、緑のカブ。
二台のバイクを並べ、二人は暗いガレージの中で、明日の朝の待ち合わせ時間を決めた。
一人暮らしの静かな夜も、何もないと思っていた明日も。
この二台がいれば、きっと鮮やかな色に変わっていく。
「じゃあ明日、朝六時に駅前で!」
真波が手を振って去っていく。
紬はガレージのシャッターを閉め、心の中でエンジンの鼓動を反芻した。
彼女の本当の春は、明日の日の出と共に幕を開ける。




