第三話 コーヒーの香りと、130円の葛藤
【銀色の静寂】
群馬県桐生市は、山々に囲まれた「織物の街」だ。
かつては「西の西陣、東の桐生」と謳われたこの街には、今もあちこちに古いノコギリ屋根の工場が残り、どこからかガチャン、ガチャンと機織りの音が規則正しく聞こえてくる。それは街の鼓動のようでもあり、あるいは過ぎ去った時代の残響のようでもある。
紬にとって、その静けさは心地よくもあり、同時にひどく退屈なものだった。
両親が仕事の都合で海外へ発ち、市営住宅の広すぎる二DKに一人残されたとき、彼女が最初に感じたのは「自由」ではなく「自分という存在の希薄さ」だった。
朝、誰に起こされることもなく目覚め、学校へ行き、授業を受け、スーパーで値引きされた惣菜を買い、誰もいない部屋でテレビもつけずにそれを食べる。
自分の人生という糸が、誰の手にも触れられず、ただスルスルと無為に解けていく。そんな感覚。
けれど、隣家の源さんから譲り受けたあの錆びたCL50のハンドルを握った瞬間、手に伝わった冷たさと重さは、あまりにも確かだった。
「トトトッ」と、まだ見ぬエンジンの鼓動を想像するだけで、透明になりかけていた自分の指先に、確かな熱が通い始めるのがわかった。
「何かを好きになる」ことは、それだけで自分をこの世界に繋ぎ止める楔になる。
紬はまだ、そのことに気づいたばかりだった。
幼馴染の真波に紹介されたのは、桐生駅の裏路地にひっそりと佇む喫茶店『アンカー』だった。
年季の入ったレンガ造りの外観に、煤けた木製のドア。扉を開けると、カウベルの乾いた音と共に、深い焙煎の香りと、壁に染み付いた微かな煙草の匂いが混じり合って鼻を突く。
「……いらっしゃい。ああ、真波の連れか」
カウンターの奥、磨き上げられたサイフォンの向こうから顔を出したのは、白髪混じりの髭を蓄えた、眼光の鋭い男だった。常連客からは単に「マスター」と呼ばれているらしい。
「藤野 紬です。……今日から、よろしくお願いします」
紬が深々と頭を下げると、マスターは眼鏡の奥から彼女を値踏みするように一瞥した。
「うちは忙しい時は目が回るが、暇な時は徹底的に暇だ。その間に勉強するなり、皿を磨くなり好きにしろ。ただし、コーヒーの香りを邪魔するような香水は禁止だ。……皿の場所は真波から聞け。明日から来い」
「はい、ありがとうございます!」
こうして、紬の「免許取得大作戦」が本格的に幕を開けた。
放課後の三時間を『アンカー』でのアルバイトに充て、時給を計算しては、頭の中でCL50のパーツ代や免許代を差し引く日々。それまでの空白だった時間は、驚くほど急速に、そして密度の高いものへと塗り替えられていった。
バイトの休憩中、紬はカウンターの端で、真波から借りた『原付免許問題集』を開く。
「……二段階右折、積載制限……覚えること、意外と多いな」
慣れない専門用語に眉を寄せながら、紬はふと、手元に置いた130円の缶コーヒーを見つめた。いつもなら迷わず自販機のボタンを押していたが、今はその重みが違う。
「130円……。これがあれば、レギュラーガソリンが一リットル近く買える。CL50なら、たぶん二十キロ以上は走れるはず」
喉の渇きを潤す一杯のジュースよりも、まだ見ぬ景色へと自分を運んでくれるガソリンの滴を選びたい。そう思う自分に、紬自身が驚いていた。
「おい、藤野」
不意に、マスターがカウンター越しに声をかけてきた。差し出されたのは、小さな紙袋だ。
「これ、余りもんだ。食え。空腹じゃ頭に入らんだろう」
中には、バターがたっぷり染み込んだ厚切りのトーストが入っていた。
「……ありがとうございます」
一口かじると、じゅわっと溢れる塩気とパンの甘みが、バイトで立ちっぱなしだった体に染み渡った。マスターは無愛想に背を向け、再び静かにネルドリップを始めている。この街の大人たちは、言葉は少ないけれど、どこか温かい。
バイトが終わると、紬は足早に帰路につき、マンションの隣にある源さんのガレージへ寄るのが日課になった。
暗がりの中で、小さなライトを頼りにCL50を磨く。
真波が教えてくれた。バイクを磨くことは、機械と対話すること。どこが錆びていて、どこが緩んでいるか、その指先で確かめる作業なのだと。
「藤野さん、頑張っとるな」
時折、源さんが顔を出しては、お茶を差し入れてくれる。
「源さん。私、絶対にこれに乗って、桐生の山の上まで行きます」
「ああ、楽しみにしてるよ。CLも、お前に磨かれて喜んでるみたいだ」
ウエスでタンクを拭うたびに、錆の下から澄んだ銀色が顔を出す。それは、紬自身の心が少しずつ色を取り戻していく過程のようでもあった。
数日後、ついに運命の「試験日」がやってくる。
紬は100円ショップで買った安物の腕時計を握りしめ、早朝の桐生駅へと向かった。
胸の中には、試験への不安よりも、ようやく「あの音」を聞けるかもしれないという、静かな高揚感が満ちていた。




