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第二話 キックペダルと放課後の秘密

 

「……CL50? 紬、あんた本気で言ってるの?」


 二限が終わった休み時間。真波の声が教室の天井を突き抜けるほど響き、紬は慌ててその口を両手で塞いだ。

「声が大きいよ、真波……! 先生とかに聞かれたら、変な目で見られるでしょ」

「だって、あのベンリィでしょ!? 源さんがずっと大事にしてた……。渋すぎる、センスが神がかってるよ紬! 普通の女子高生はカブかスクーター、良くてモンキーだよ」

 真波は机に身を乗り出し、自分のことのように目を輝かせた。中学時代、放課後になれば勉強そっちのけでバイクの専門誌を広げていた彼女にとって、紬のニュースは最高のご馳走だったらしい。

「でも、私……免許も持ってないし、そもそも動かし方もわからない。自転車みたいに漕げば動くわけじゃないし」

「そんなの、取ればいいし覚えればいいの。決まり! 今日の放課後、紬の家で作戦会議ね。現車確認しなきゃ始まらないでしょ!」

 真波の強引さは、いつだって紬の「なんとなく」な日常を無理やりこじ開けていく。少しだけ疲れを感じることもあるけれど、今の紬にはその熱量がどこか救いでもあった。


 放課後。市営住宅の駐輪場の端、ツタに覆われた古いガレージの前で、二人はその「鉄の塊」と対峙していた。

 西日に照らされたベンリィ CL50。シルバーのタンクには薄く埃が積もり、あちこちに小さな錆が浮いている。けれど、真波は「はぁ〜、たまんない……」と恍惚とした声を漏らしながら、その独特なアップマフラーを指でなぞった。

「見てよ、この細いフレームに無理やりオフロード感を詰め込んだスクランブラースタイル。源さん、よくこんな綺麗な状態で残してたね」

「紬、とりあえず跨ってみなよ」

「えっ、でも、壊しちゃいそう。倒したら起こせる自信ないし」

「大丈夫、これは原付。あんたの自転車にエンジンがついただけ。ほら!」

 促されるまま、紬は初めてバイクのシートに身を預けた。

 自転車よりもずっと重く、固い。地面に足を着くと、アスファルトの冷たさが靴の裏を通じてダイレクトに伝わってくる。股の間にあるエンジンの、ひんやりとした金属の存在感。

「……重いね」

「それが鉄の馬の重さだよ。紬、右側のクランクケースから生えてるレバー、見える?」

 真波が指差したのは、キックペダルだった。

「それを外側に引き出して、一気に踏み抜く。体重を全部乗せて、ガツンと!」

 紬はハンドルを両手で強く握りしめ、右足に力を込めた。

 ――スカッ。

 手応えはなく、ペダルは虚しく空を切る。

「もっと、上までしっかり戻して。……一箇所、足が止まるくらい重いところがあるでしょ? そこが圧縮。そこから一気に!」

「……えいっ!」

 ガツン、という硬い衝撃が足の裏に返ってきた。それと同時に、

 ボフッ……。

 マフラーから一瞬だけ、古いガスが吐き出される音がして、独特の焦げたような匂いが鼻を突いた。

「あ……」

「生きてる! エンジン、生きてるよ紬! ガソリンが腐ってなきゃ、これすぐかかるよ!」

 真波がはしゃぐ隣で、紬は自分の右足を見つめていた。ジンジンと痺れるような感覚。今まで、自分の力だけで何かを動かそうとして、こんなに確かな手応えを感じたことがあっただろうか。

 けれど、現実は甘くない。

「……でも、免許を取るのにお金かかるよね。源さんに貰ったからって、タダで乗れるわけじゃないんだ」

「そうね。試験手数料に講習代、あとは自賠責保険にヘルメット代……なんだかんだ数万円は飛ぶかな」

 真波の言葉に、紬は財布の中身を思い浮かべた。両親から送られてくる生活費は、食費と光熱費でほとんど消える。贅沢なんて、今の自分には縁のない言葉だ。


「真波。私、バイト探す」

「えっ、いきなり?」

「これで……これに乗って、どこかに行きたいの。ここじゃない、もっと遠く。桐生の山の上とか、渡良瀬川のずっと先とか」

 孤独な一人暮らし。誰もいない部屋に帰り、淡々と食事を済ませて寝るだけの毎日。そんな「空っぽ」だった日常に、初めて具体的な「目的地」が生まれた瞬間だった。

「……いいじゃん。紬、顔つき変わったね。それなら私の知り合いがやってる喫茶店、紹介しようか? 桐生駅の近くで、少し古臭いけど時給は悪くないよ」

「本当? お願い、真波」


 夕陽が桐生の街並みをオレンジ色に染め上げていく。

 錆びたシルバーのタンクが、その光を反射して一瞬だけ新品のように輝いた。

 紬は心の中で、まだ冷たいエンジンの鼓動を想像してみた。

 トトトッ、と小気味よく鳴る未来の音を。

「よし、決まり! 明日から特訓だよ。勉強と、バイトと、あとこの子の掃除!」

 真波の笑い声が、ガレージの中に響き渡った。

 紬はもう一度、CL50のハンドルを握りしめた。これから始まる高校生活が、このバイクと同じように、自分の足で踏み出す一歩から始まるのだと信じて。

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