第一話 見つけたもの
群馬県桐生市。
「やばっ、遅刻する……!」
あまりの寝心地の良さに、うっかり寝坊しかけていた。
「入学式、間に合わないかも!」
紬はそう独り言を漏らし、食パンを頬張りながら急いで支度をする。
四月七日、紬が高校生になる日。
門出を祝うかのような快晴だ。こんなに気持ちの良い青空を見るのは、いつ振りだろう。
両親にも入学式に来てほしかったが、一ヶ月前に海外赴任で日本を去ってしまった。今は家族で住んでいた市営住宅で、心細い一人暮らしのような生活を送っている。
送られてくる生活費は決して余裕があるわけではないが、これといった趣味もない紬にとっては、それすらも「なんとかなる」程度の問題だった。
紬は支度を済ませ、自転車に飛び乗りフルスピードで高校へ向かう。満開の桜を眺めながら走りたいが、今は一分一秒が惜しい。
桐生駅手前の踏切を越えれば、目的地はもう目と鼻の先だ。
あの大のバイク好きだった親友は、もう来ているだろうか。
期待を膨らませながら、真新しい制服の裾を整え、急いで高校の正門をくぐった。
その瞬間、予鈴のチャイムが遠くで鳴り響いた。
「うそ、終わった……!」
駐輪場に自転車を突っ込み、鍵をかける手ももどかしく、紬は校舎へと駆け出した。桐生特有の冷たい風「赤城おろし」が、春なのに少しだけ肌を刺す。
掲示板に貼り出されたクラス名簿を指でなぞる。
「一年三組、一三番、藤野 紬……あった!」
教室に滑り込んだのは、担任が教壇に立つちょうど一分前。廊下を激走したせいで心臓が喉から飛び出しそうだったが、周囲の生徒は新しい環境への緊張で、紬の乱れた呼吸に気づく余裕もないようだった。
体育館での長い式典が終わり、再び教室に戻る。
「おーい、紬! 生きてる?」
背後から聞き覚えのある、少しハスキーな声がした。振り返ると、そこにはショートヘアの少女が不敵な笑みを浮かべて立っていた。中学三年間を共にした、バイクマニアの親友・真波だ。
「真波……! 同じクラスだったんだ」
「当たり前でしょ、うちらの縁をナメないで。それより紬、さっきの式の最中、ずっと寝そうになってたでしょ。親がいないからって夜更かしでもしたの?」
「……寝心地が良すぎただけ。それより真波こそ、入学早々カバンからバイク雑誌がはみ出してるよ。没収されても知らないからね」
「いいの。これが私のガソリンなんだから」
真波は変わらない。自分の「好きなもの」に真っ直ぐで、迷いがない。
それに比べて自分はどうだろう。両親のいない部屋に帰り、特にやりたいこともなく、淡々と生活費をやりくりして、明日が来るのを待つだけ。
放課後、連絡事項を終えて教室を出ると、紬は一人で自転車を走らせた。
市営住宅へ続く帰り道。紬は吸い寄せられるように、隣の家に立ち寄った。
そこには、昔から紬を孫のように可愛がってくれている、近所の「源さん」がいた。
「おかえり、紬。入学式はどうだった」
「……なんとか、遅刻せずに済んだよ」
「ははは、相変わらずだな」
源さんは使い込まれた軍手で額を拭い、ガレージの奥を指差した。そこには、長い間ブルーシートが被せられていた「塊」がある。
「両親もいなくなって、寂しくなったろう。これ、持っていきな。お前にやるよ」
源さんがシートを剥ぐと、そこから現れたのは、アップマフラーが特徴的な古い原付だった。
ホンダ・ベンリィ CL50。
「これ……源さんの大事なバイクじゃ……」
「もう俺には重くてかなわん。それに、お前ならこいつをどこか遠くへ連れて行ってくれる気がしてな」
夕陽を浴びて、錆の浮いたシルバーのタンクが鈍く光る。
50ccの小さな車体。けれど、自転車しか知らなかった紬には、それが世界を広げてくれる魔法の道具に見えた。
「……いいの? 本当に」
「ああ。ただし、ちゃんと直して乗るんだぞ」
紬はそっと、冷たいハンドルに手を触れた。
親がいない寂しさも、将来への漠然とした不安も。この鉄の塊に触れている間だけは、不思議と遠ざかっていくような気がした。
「……見つけた」
趣味も何もないと思っていた自分の生活に、初めて色が着いた瞬間だった。
紬は心の中で、さっき別れたバイクオタクの親友・真波の顔を思い浮かべた。明日、彼女に何て言おう。
群馬の空は、どこまでも高く、どこまでも広かった。
ご覧いただきありがとうございます。
この小説は、トネコーケンさんの「スーパーカブ」に強く影響を受けて書き始めました。
ところどころ似た部分がありますが、ご容赦ください。




