第48話 崩壊と脱出
東京大迷宮、地下100階層。
つい先ほどまで、俺たちを満ち足りたスパイスの香りと至福の余韻で包み込んでいた空間は、今や世界の終末を思わせる地獄絵図へと変貌していた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
耳をつんざくような轟音。
足元の黒曜石の床が波打ち、深い亀裂が次々と走る。
天を覆っていた紫色の魔力結晶が、その輝きを失い、巨大な氷柱のようにバラバラと崩れ落ちてくる。
ダンジョンの「核」となっていた『終焉の捕食者』を解体し、その心臓部たる極上肉を奪ったことで、この階層そのものが自壊プロセスを開始したのだ。
「キャアアアッ!?」
「くっ……! 立っていられません!」
ゆき子とすずが悲鳴を上げ、激しく揺れる床に膝をついた。
S級剣士であるジークが即座に前へ躍り出る。
「師匠! 下がっていてください! 『雷刃・円月』!」
ジークが抜刀し、紫電を纏った剣を頭上で高速回転させる。
降り注ぐ数トンクラスの岩塊が、雷の結界に触れた瞬間、細かい砂利となって弾け飛んだ。
だが、その砂利すらも弾丸のような速度で降り注ぐ。
「甘いわね。……『アイアン・ウォール』!」
しずかが自らの鋼鉄コンテナを盾にして俺たちの前に立ち塞がり、岩の雨を弾き返す。
彼女の筋肉が限界まで軋み、額から汗が吹き出している。
いかにS級とはいえ、ダンジョンそのものの崩壊という「自然の猛威」を前にしては、長くは持たない。
「悠作さん! ダメです! 空間の魔力乱水流が酷すぎて、地上への帰還用転移スクロールが起動しません!」
瞳がタブレットを必死に叩きながら、絶望的な声を上げた。
「崩壊の進行速度が予測を上回っています! このままではあと三分で、この空間は完全に圧壊します!」
『ひ、ひいいぃぃっ! た、助けてくれぇぇっ!』
すずの氷魔法で作られた分厚い枷で全身を拘束されている『蛇の目』のリーダーが、情けない声で命乞いを叫んでいる。
まったく、最後まで迷惑な奴だ。
「……三分、か」
俺は、落下してくる岩の軌道を冷静に見極めながら、愛用のナイフの柄に手をかけた。
絶体絶命のピンチ。
だが、俺の心は不思議と落ち着いていた。
定時退社を果たすまで、俺は絶対に諦めない。
それに、俺には頼れる相棒たちがいる。
「おい、ポチ! 出番だぞ!」
俺の呼びかけに、俺の足元で身を伏せていた白い毛玉が反応した。
「ワオォォォォォンッ!!」
ポチが天に向かって、神々しい遠吠えを放つ。
その瞬間、ポチの身体から青白い閃光が爆発的に溢れ出した。
ズズズンッ! と質量が膨張する。
第37階層で見せた、あの『覚醒』の再来だ。
バレーボールサイズだった仔犬は、一瞬にして体長5メートルを超える白銀の巨狼へと姿を変えた。
全身を覆う剛毛が、落下してくる岩塊をトランポリンのように弾き返す。
「五右衛門! お前も出し惜しみはなしだ! 全力で俺たちを運べ!」
『合点でヤンス、旦那ァ! ……ついに、オイラの真の力を見せる時が来たでヤンスね!』
俺の背中にへばりついていた唐草模様の風呂敷――五右衛門が、俺から離れて宙に舞い上がった。
そして、信じられない現象が起きた。
五右衛門の布地が、幾何学的な光のラインを帯びて変形し始めたのだ。
風呂敷の四隅から、金属質のアームが伸びる。
布の表面には、現代のホログラムモニターのような複雑な計器類が浮かび上がり、魔力と機械が融合したようなメカニカルな『座席』と『防護キャノピー』が形成されていく。
『機体番号001、古代迷宮文明・第零世代・超次元自律運搬システム『ゴエモン』。……最終防衛形態、起動完了でヤンス!』
「……は?」
「なっ、なんだって!?」
普段の江戸っ子口調と、高度なSF設定が完全にミスマッチしている。
だが、そんなツッコミを入れている余裕はない。
巨大化したポチの背中に、メカニカルに変形した五右衛門が「カシャン!」という小気味よい金属音と共に合体した。
ポチの背中に、俺たち全員が余裕で乗れる、透明な防護ドーム付きの巨大な神輿が完成したのだ。
「すげぇ! なにこれ、超ハイテクじゃん!」
「乗るぞ! 全員、急げ!」
俺の合図で、ジーク、すず、しずか、ゆき子、瞳が次々と五右衛門のキャノピーの中へと飛び込む。
最後に俺が乗り込み、氷の枷で身動きが取れないリーダーを隅に転がす。
「ポチ! 五右衛門! 出発だ! 一気に地上まで駆け上がれ!」
「ワフオォォォォォッ!!」
『アイアイサーでヤンス! 空間跳躍ブースト、点火!』
ドゴォォォォォォォンッ!!
ポチが黒曜石の床を蹴り砕いた。
次の瞬間、俺たちの身体は猛烈なGに押し付けられた。
ポチは崩れゆく壁を垂直に駆け上がり、落下してくる巨大な瓦礫の隙間を、まるで流星のような速度で縫うように進んでいく。
五右衛門の展開した透明な防護ドームが、強烈な風圧と衝撃を完全にシャットアウトしている。
「ははははっ! 速い、速すぎます! 景色が歪んで見える!」
ジークが窓に張り付いて歓喜の声を上げる。
「空間の歪みを物理的な脚力で突破している……!? あり得ない、あり得ないです! データが! データがオーバーフローします!」
瞳が白目を剥きながらタブレットを操作している。
第100階層、90階層、80階層。
ポチの驚異的な跳躍力と、五右衛門の重力制御システムのハイブリッドにより、俺たちはダンジョンの縦穴をロケットのように逆噴射して駆け上がっていた。
だが、この超絶スピードでの移動は、しばらく時間がかかりそうだ。
俺は、ふぅ、と息を吐いてドーム内の安全な床に腰を下ろした。
揺れは全くない。五右衛門のジャイロシステムが完璧に機能しているからだ。
「……さて」
俺は五右衛門のポケットから、携帯用魔導コンロと厚手の鉄板を取り出した。
先ほどのマサラドーサは、崩壊のせいで味わい尽くす前に飲み込んでしまった。
俺の胃袋は、まだ完全な満足を得ていない。
「悠作さん? こんな状況で、まさか……」
すずが目を丸くする。
「ああ。時間が惜しい。脱出するまでの間に、もう一食作らせてもらう」
「マジで!? 師匠、メンタル鋼すぎっしょ!」
ゆき子が大爆笑する。
俺は五右衛門の保冷庫から、上質な牛肉の塊を取り出した。
ダンジョン産『ミノタウロスのハラミ』だ。
赤身の濃厚な旨味と、適度な脂が乗った最高の部位。
「今日は、メキシカンだ。熱々の『ファヒータ』を作る」
俺はナイフを抜き、ハラミを細切りにしてボウルに入れた。
そこに、たっぷりのスパイスを投入する。
クミンパウダー、チリパウダー、オレガノ、パプリカパウダー。
さらに、すりおろしたニンニクと、新鮮なライムの果汁をギュッと絞る。
オリーブオイルと塩胡椒を加え、手でしっかりと揉み込む。
スパイスの複雑な香りと、ライムの爽やかな酸味がドーム内に充満する。
「うわぁ……! すごくスパイシーないい匂い!」
「スパイスの香りが、疲労した脳を覚醒させます……!」
すずと瞳が、涎を飲み込む音を立てる。
肉をマリネしている間に、野菜の準備だ。
玉ねぎと、赤・黄・緑のカラフルなパプリカを太めの千切りにする。
さらに、付け合わせのソースも手早く作る。
トマト、玉ねぎ、パクチー、ハラペーニョを細かく刻み、ライム果汁で和えた『ピコ・デ・ガヨ』。
そして、濃厚なアボカドを潰して作った『ワカモレ』。
爽やかな酸味の『サワークリーム』も欠かせない。
「よし、焼くぞ」
魔導コンロの火力を最大にし、スキレットを煙が出るほど熱する。
そこに、まずは野菜を放り込む。
ジュワァァァァァッ!!
野菜の水分が蒸発し、甘い香りが引き出される。
表面に軽い焦げ目がついたら、野菜をスキレットの端に寄せ、中央の空いたスペースにマリネした肉を一気に投入する。
バチバチバチッ!
ジュゥゥゥゥゥゥッ!!
先ほどとは比べ物にならない、暴力的なまでの焼き音が響き渡る。
熱された鉄板に触れたスパイスが弾け、焦げた肉の脂と絡み合い、むせ返るような香ばしい匂いが立ち上る。
クミンの土臭さ、チリの刺激、そしてライムの酸味が、熱気となって俺たちの鼻腔を直接殴りつけてくる。
「……たまらん。筋肉が、タンパク質を激しく要求しているわ……!」
しずかがコンテナを握りしめ、ワナワナと震えている。
肉に火が通ったら、野菜と混ぜ合わせる。
別のコンロで、トウモロコシ粉で作った薄焼きパン『トルティーヤ』を、直火で軽く炙って温める。
プクッと膨らみ、焦げ目がついたら完成だ。
「飲み物はこれだ」
俺はクーラーボックスから、鮮やかなオレンジ色の液体の入った瓶を取り出した。
「キンキンに冷えた『ファンタ・オレンジ』だ」
「えっ、ファンタ? お酒じゃないんですか?」
「ファヒータの強烈なスパイスには、このジャンクで人工的な甘さと、強炭酸の刺激が死ぬほど合うんだ」
グラスに氷を並々といれ、ファンタを注ぐ。
シュワァァァァッという炭酸の音が、喉の渇きを限界まで引き上げる。
「「「いただきます!!」」」
脱出ポッドと化した五右衛門の中で、俺たちは温かいトルティーヤを手に取った。
そこに、熱々の肉と野菜を乗せる。
さらに、ピコ・デ・ガヨ、ワカモレ、サワークリームをたっぷりとトッピングし、クルリと巻いて、大きく口を開けてかぶりつく。
「……んんっ!!!」
ゆき子が目をカッと見開いた。
「うっま!! 何これ、味が大渋歩! 肉の旨味とスパイスの辛さがガツンと来るのに、アボカドのまろやかさとサワークリームの酸味で、めちゃくちゃ爽やか! トマトのシャキシャキ感も最高!」
「……見事です。噛むたびに、口の中で色々な味が爆発します。……これは、味覚の百花繚乱ですね!」
ジークも感動のあまり、意味不明な四字熟語を叫んでいる。
俺も大きくかじりつく。
ハラミの柔らかな弾力。クミンのエキゾチックな香り。
そこにフレッシュなサルサの酸味が加わることで、脂っこさを全く感じさせない。
最高だ。これぞメキシカンの真骨頂。
そして、口の中がスパイスで熱くなったところで、冷えたファンタを流し込む。
「くぅぅぅぅっ!!」
全員が一斉に天を仰いだ。
オレンジの甘酸っぱさと、強烈な炭酸の弾ける刺激。
それが、スパイスの熱を心地よく洗い流し、口の中を爽快感で満たしてくれる。
ウイスキーやビールもいいが、このジャンクな組み合わせがもたらすカタルシスは、他の何物にも代えがたい。
「……最高ね。この人工的な甘みが、逆にスパイシーな肉と完璧に調和しているわ。……背徳的な美味しさよ」
しずかも顔を紅潮させてファンタを煽っている。
足元では、外の景色を見ながら走っているポチの口にも、俺が特大サイズのファヒータを放り込んでやった。
走りながら器用に咀嚼し、「ワフッ!(美味い!)」と喜んでいる。
ダンジョンが崩壊していく轟音と、流星のような速度。
そんな非日常の極みのような空間の中で、俺たちは最高に美味しい「残業飯」を堪能していた。
『旦那! もうすぐ地上でヤンス! 衝撃に備えてくだせぇ!』
五右衛門のアナウンスが響く。
見上げれば、縦穴の先に、夕暮れの茜色の空が見え始めていた。
「よし、最後の一口だ」
俺は残っていたファヒータを口に放り込み、ファンタで流し込んだ。
胃袋は完全に満たされた。
残業の疲れも、スパイスと炭酸の力で吹き飛んだ。
ズドオオオオォォォォンッ!!
凄まじい爆発音と共に、ポチが東京大迷宮の入り口を突き破り、地上の空へと飛び出した。
眼下には、防衛戦の傷跡が残る練馬の街並みが広がっている。
「……帰ってきたぞ」
俺は防護ドーム越しに夕日を眺めながら、深く息を吐いた。
世界を揺るがす大災害は、一人の料理人の「定時退社」への執念によって、水際で食い止められたのだ。
さあ、家に帰ろう。
あの騒がしくも温かい、俺たちの「日常」へ。




