第46話 悠作の本気
絶望は、唐突に、そして理不尽に降り注いだ。
東京大迷宮、地下100階層。
『終焉の捕食者』が背中から展開した無数の砲塔から、漆黒の極太レーザーが乱れ撃たれる。
空間そのものを削り取る破壊の光。
S級探索者であるジーク、しずか、すず、ゆき子、そして巨大ポチが防戦に回るが、その圧倒的な質量と物量の前に、じりじりと後退を余儀なくされていた。
「くそっ、これじゃ近づけねぇ……!」
俺は、背負った瞳を庇いながら、飛んでくる岩盤の破片をナイフで弾き落とした。
瞳のナビゲートシステムは、敵の魔力密度の急上昇によりダウン寸前だ。
視界に映る赤いガイドラインはノイズまみれで、もはや役に立たない。
『ハハハハハハッ! 見ろ! これが神の力だ! 貴様らなど、塵芥に等しい!』
肉の山の上で、『蛇の目』のリーダーが狂気の笑い声を上げる。
彼は勝利を確信していた。
そして、その慢心が、残酷な一手を打たせた。
『まずは、その目障りな風呂敷から消してやろうか!』
リーダーが指を弾く。
巨獣の脇腹から、鞭のような触手が音速で射出された。
狙いは――俺たちが戦いの邪魔にならないよう、足元の岩陰に退避させていた『五右衛門』だ。
「……ッ!? やめろ!!」
俺は叫んだ。
自分の身が傷つくことなど、どうでもよかった。
だが、あの中には。
五右衛門の中には、師匠の形見であるノートと――そして、何より大事な「アレ」が入っている。
ドゴォォォォォンッ!!
間に合わなかった。
触手の一撃が、五右衛門の置いてあった岩場を直撃した。
岩が粉砕され、土煙が舞う。
『ギャァァァァァッ!! 痛いでヤンス!!』
五右衛門の悲鳴が脳内に響く。
俺は転がるように駆け寄った。
唐草模様の風呂敷は、泥と瓦礫にまみれ、端が少し破れていた。
だが、本体のダメージは軽微だ。S級魔道具の耐久力は伊達じゃない。
問題は、中身だ。
風呂敷の結び目が緩み、中からある物が転がり出ていた。
ひしゃげた、曲げわっぱの弁当箱。
蓋が弾け飛び、中身が泥の中に散乱している。
ふっくらと炊き上げた白米。
丁寧に骨を抜いた焼き鮭。
甘い卵焼き。
それらが、無惨にも押し潰され、泥にまみれ、原形を留めない生ゴミへと変貌していた。
「…………あ」
俺の口から、乾いた音が漏れた。
時間が止まったような気がした。
これは、第90階層で食べた昼食のおにぎりではない。あれは完食した。
これは、第99階層でみんながBBQを食べている最中、俺がこっそりと五右衛門の中で仕込んでおいた、『夕食用の特製弁当』だ。
この戦いが終わったら、みんなで食べるはずだった。
「今日は残業だから、夜食が必要だな」と思って用意した、俺のささやかな楽しみ。
それが。
ただの泥の塊になっている。
『ふん、なんだそれは。薄汚い飯か? 貴様の命より大事なものかね?』
頭上から、嘲笑う声が降ってきた。
リーダーは、潰れた弁当を見て鼻で笑った。
『安心しろ。すぐに貴様らも同じ肉塊に変えてやる』
プツン。
俺の中で、何かが焼き切れる音がした。
それは理性のヒューズであり、長年自分に課してきた「安全第一」「事なかれ主義」というリミッターだった。
俺はゆっくりと立ち上がった。
足元の泥まみれの米粒を、そっとハンカチで包み、ポケットに入れる。
「……おい」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。
戦場の喧騒がかき消え、俺の声だけが奇妙に響き渡る。
「今何時だ」
『は? 命乞いにしては変なことを聞く――』
「答えろ。今何時だ」
俺が顔を上げると、リーダーの言葉が詰まった。
俺の目を見て、本能的な恐怖を感じたのだろうか。
「じ、18時……18時15分だが……」
18時15分。
俺の定時は、18時だ。
「……そうか。過ぎてたか」
俺は深く、深く息を吐いた。
肺の中の空気をすべて入れ替えるように。
そして、腰のナイフを抜いた。
錆びついた安物のナイフ。だが今の俺には、それが伝説の聖剣よりも頼もしく感じられた。
「定時を過ぎた。ここからは残業だ」
俺の体から、魔力ではない、もっと根源的な「圧」が立ち昇る。
「俺は残業が嫌いだ。だから、高くつくぞ。……残業代は、てめぇらの命で払ってもらう」
俺がナイフを構えた、その瞬間だった。
バーンッ!!
唐突に、戦場に似つかわしくない、風船が割れるようなコミカルな破裂音が響いた。
「……?」
俺も、リーダーも、S級たちも動きを止める。
音の出処は、ポチだった。
敵の攻撃を受け止め、傷だらけになっていた巨大フェンリル。
その体が、限界を迎えて弾け飛んだ――のではない。
ボフゥッ! と舞い散る大量の白い毛と光の粒子。
その煙幕の中から、スポーン! と勢いよく飛び出してきたのは――。
「キャウン!(脱げた!)」
つるんとした、一回り小さなポチだった。
傷ついた外側の巨大な毛皮と魔力殻を、まるで着ぐるみのように「脱ぎ捨て」、中から無傷の新品ボディが出てきたのだ。
いわゆる「脱皮」である。いや、緊急回避のための「強制パージ」か。
ポチは空中でくるりと回転し、スタッと俺の足元に着地した。
そして、クリクリした瞳で俺を見上げ、首を傾げる。
尻尾をプロペラのように振っている。
「ワフ?(パパ、怒ってる?)」
あざとい。
あまりにもあざとい。
絶望的な戦場、激怒する主人、その足元で「一皮むけてスッキリしました!」という顔をする能天気な犬。
そのあまりの空気の読めなさに、俺の怒りの沸点が逆に一周回って、氷のような冷静さへと昇華された。
「……ああ、怒ってるぞ。だが、お前にじゃない」
俺はポチの頭を撫でた。
ポチは嬉しそうに俺の手に頭を擦り付ける。
「ポチ。……あの肉団子、食いたいか?」
「ワフッ!(不味そう! でも食う!)」
「そうか。なら、俺が『調理』してやる。……食いやすいサイズにな」
俺は一歩踏み出した。
その一歩は、これまでのように気配を消すものではない。
世界に己の存在を刻みつけるような、重く、鋭い一歩。
――封印解除。『虚空殺』奥義・【無尽解体】。
俺の姿が、陽炎のように揺らぐ。
消えたのではない。「認識の外」へ移動したのだ。
『なっ……!? 消え……どこだ!?』
リーダーが狼狽する。
俺はすでに、巨獣の懐に入り込んでいた。
瞳のナビゲートはいらない。
怒りによって研ぎ澄まされた俺の五感は、巨獣の魔力の流れ、血管の拍動、筋肉の繊維……その全てを、まるでレントゲン写真のように透過して捉えていた。
ヒュンッ。
ナイフを一振り。
それだけで、巨獣の右前脚を支える腱が切断された。
ズシンッ!
支えを失った巨体が傾く。
『グオオオオッ!?』
『バカな! あの硬度を、魔法もなしで!?』
リーダーの悲鳴を無視し、俺は踊るように刃を振るった。
斬撃は見えない。
ただ、俺が通った後に、遅れて空間に「線」が走り、物体がズレる。
ヒュン、ヒュン、ヒュパパパパンッ!
一秒間に数十撃。
装甲の隙間、魔力障壁の切れ目、再生能力の核。
あらゆる「急所」を、的確に、無慈悲に切り裂いていく。
ボト、ボトボトッ。
巨獣の身体から、触手が、角が、装甲板が、不要なパーツとして剥がれ落ちていく。
それは戦闘ではない。
巨大なマグロを解体ショーで捌くような、一方的で事務的な「作業」だった。
「すげぇ……。師匠、本気出すとあんな動きすんの……?」
ゆき子が口を開けて呆然としている。
「速いとかそういう次元じゃないわ。……彼、対象を『敵』として見ていない。『食材』として処理しているわ」
しずかが戦慄する。
そう。俺にとってこいつはもう、恐怖の対象ではない。
ただの「下処理が面倒な肉」だ。
弁当を潰した報いだ。丁寧に、時間をかけて、絶望を味あわせてやる。
『や、やめろ! 近づくな! この化け物め!』
リーダーが半狂乱で叫び、砲塔からレーザーを乱射する。
だが、その射線上に俺はいない。
俺は巨獣の背中に駆け上がり、リーダーの目の前に着地した。
「……化け物はお互い様だろ」
俺はナイフを、リーダーの鼻先に突きつけた。
切っ先についた青い血が、ポタリと滴る。
「言ったよな。神の力を得るって」
「ひ、ひぃっ……!」
「残念だったな。神様は、弁当を粗末にする奴には微笑まないんだよ」
俺はナイフを振りかぶった。
トドメは刺さない。
まだだ。まだ「調理」は終わっていない。
こいつには、自分の作った最高傑作が、ただの肉片へと変えられていく様を、特等席で見届けてもらわなければならない。
「……メインディッシュの時間だ。たっぷりと味わえ」
俺の宣告と共に、巨獣の左半身が、自重に耐えきれずに崩壊を始めた。
断面は、鏡のように滑らかだった。
残業確定の夜。
アパートで待つ夕飯のことを考えながら、俺は冷徹に、そして淡々と、世界を救うための「解体作業」を続行した。
戦いはまだ終わらない。
この巨大な食材を、完全に「料理」し尽くすまでは。




