第45話 最深部の主
重厚な石造りの『冥府の門』が、地響きを立てて開け放たれた。
東京大迷宮、地下100階層。人類がいまだかつて到達したことのない、完全なる未踏破領域。
開かれた扉の向こうから、冷凍庫を開けた時のような白い冷気と、鉄錆の混じった濃厚な血の匂いが吹き付けてくる。
「……行くぞ」
俺、鈴木悠作は、愛用のナイフを逆手に握り直し、深淵へと足を踏み入れた。
背後には、S級剣士ジーク、S級ポーターのしずか、A級筆頭のすず、B級ダンサーのゆき子、そして巨大化したフェンリルのポチが続いている。
彼らの顔に恐怖はない。先ほど第99階層の広場で平らげた『BBQポーク』と『チョコレート・ミルクシェイク』のカロリーが、彼らの闘争本能と士気を極限までブーストさせているからだ。
扉の先は、洞窟というよりは「宇宙空間」のようだった。
足元は磨き上げられた黒曜石のように真っ黒で、周囲には紫や青に発光する魔力結晶が、無重力空間のようにフワフワと浮遊している。
そして、その広大な空間の中央。
「……なんだ、ありゃあ」
俺は思わず足を止め、目を細めた。
それは、巨大な『肉の山』だった。
全長は50メートルを下らないだろう。タコの触手、ドラゴンの鱗、甲殻類の甲羅、獣の剛毛……あらゆる魔物の特徴を無秩序に継ぎ接ぎしたような、冒涜的なキメラ。
グチャリ、グチャリと脈打ち、蠢き、周囲の魔素をブラックホールのように吸い込んでいる。
「『終焉の捕食者』。……古い文献にのみ名が記されている、ダンジョンそのものを喰らい尽くす災厄の獣です」
いつの間にか俺のすぐ隣まで来ていた中村瞳が、タブレットの画面を青ざめた顔で見つめながら言った。
「そのはず、ですが……おかしいです。生体反応が自然ではありません。まるで、何者かによって人為的に制御されているような……」
『ご名答。さすがは国立魔法大学の天才研究員といったところですか』
突如、肉の山の上部から、慇懃無礼な声が響き渡った。
声は拡声魔法によって空間全体に反響している。
見上げると、『終焉の捕食者』の巨大な頭部に、一人の男が立っていた。
漆黒のスーツに身を包み、爬虫類のように細い目を持った男。
胸元には、二匹の蛇が絡み合うバッジが鈍く光っている。
「……お前、アパートのインターホン越しに勧誘してきた奴だな」
俺が睨みつけると、男は芝居がかった動作で大げさに一礼した。
『お久しぶりです、鈴木悠作様。私は闇ギルド『蛇の目』の首領を務めております。先日、貴方がウチの末端を「夕飯のついで」に壊滅させてくれたおかげで、計画を少し前倒しせざるを得ませんでしたがね』
男の足元から、黒い管のようなものが何本も伸び、肉の山に深く突き刺さっている。
彼は何らかの魔導具を介して、この規格外のバケモノを操っているらしい。
「スタンピードを起こしたのはお前か。……何が目的だ」
『目的? 単純な話ですよ。この『終焉の捕食者』は、あらゆる魔物の能力を喰らい、自己進化する究極の兵器。ですが、唯一の弱点が「燃費の悪さ」と「魔力制御の難しさ」でした』
男は両手を広げ、狂気に満ちた笑顔を浮かべた。
『そこで貴方です! あの配信動画で見せた、無駄の一切ない魔力制御技術、そして解体術! 貴方のその神髄をこの獣に喰わせ、融合させれば、私はこの世界を統べる神に等しい力を得る! さあ、大人しくその身を捧げ――』
「……すず。ゆき子。ジーク、しずか」
俺は男の長口上を遮り、後ろの面々に声をかけた。
「はいっ!」
「りょーかい、師匠!」
「御意!」
「任せて」
「あいつの話、長いしつまんないから。……適当に暴れて黙らせてくれ。俺は観察する」
俺の言葉と同時。
S級探索者たちが、一斉に巨獣へと襲いかかった。
すずの氷剣から放たれた『絶対零度の斬撃』と、ゆき子の蹴りから放たれた『爆炎の魔力石』が、猛スピードで肉の山へと殺到する。
さらにジークが紫電となって宙を舞い、雷の刃を振り下ろす。しずかは足元の黒曜石を砕き、砲弾のように巨獣の顔面へと投げつけた。
ドガァァァァァァァァンッ!!
氷と炎、雷光と質量がぶつかり合い、凄まじい水蒸気爆発が広大な空間を揺るがした。
『なっ……!? 貴様ら、私の高説の途中で……!』
「黙れ! 師匠の定時退社を邪魔する奴は、アタシが許さないっしょ!」
「鈴木さんを喰うなど、万死に値します!」
爆煙を切り裂き、巨大な触手が何本も襲いかかってくる。
だが、それをジークの雷撃と、しずかの怪力がことごとく弾き返す。
巨大ポチも咆哮を上げ、噛みつきで触手を根本から食いちぎっていく。
圧倒的な乱戦。
だが、俺はナイフを握ったまま、動かずにそれを見ていた。
……おかしい。
「再生速度が異常だ」
すずが空間ごと触手を凍らせても、ジークがそれを雷で粉砕しても。
巨大な肉塊は、削り取られた端から新たな肉芽を膨らませ、一瞬で元の形状に戻っていく。
甲殻に覆われた部分はS級の攻撃すらも完全に弾き返し、ダメージを与えられている様子がない。
「ただデカいだけじゃない。……構造が複雑すぎる」
料理人として、いかにしてあの巨大な食材を「解体」するか。
関節の隙間、装甲の継ぎ目という「急所」を見極めようとするが、キメラの身体は絶えず波打ち、魔力の流れが一定ではない。
「瞳!」
俺は、後方でデータ収集を続けている中村瞳を呼んだ。
彼女の【解析眼】があれば、あの巨体の弱点が丸裸にできるはずだ。
「あいつの装甲の継ぎ目、魔力が最も薄い『急所』のルートを割り出せるか!?」
俺の問いに、瞳は白衣を翻して俺の隣まで走ってきた。
その瞳は、いつになく熱っぽい、ギラギラとした光を帯びていた。
「対象の魔力干渉が強すぎます! 単独の演算では正確な三次元ルートを弾き出せません! リアルタイムで貴方の脳内にナビゲートするには、物理的な接触による『直接同期』が必要です!」
「直接同期? どうやるんだ!?」
「こうします!」
ガシッ!
瞳が、俺の背中に後ろから勢いよく抱きついてきた。
両腕を俺の首元に回し、背中にぴったりと彼女の柔らかい体が密着する。
耳元には彼女の熱い吐息がかかり、白衣の下から微かな石鹸の香りと、女性らしい甘い匂いが漂ってきた。
「お、おい! 戦闘中だぞ!」
「問題ありません! この密着状態なら、私の魔力回路と鈴木さんの神経系を同調させられます! さあ、行きますよ!」
有無を言わさぬ瞳の宣言と共に、俺の視界に幾何学的なデータが直接流れ込んできた。
巨大な『終焉の捕食者』の体がワイヤーフレームのように透け、魔力の流れ、装甲の厚さ、そして弱点候補の光の点が、無数に浮かび上がる。
「……すげぇな、こりゃ。痛いほど丸見えだ。だが、弱点の位置が絶えず移動してるぞ」
「ええ、それが厄介なんです! でも、貴方の反射神経と私の演算能力を合わせれば追いつけます! ……ああ、素晴らしい」
俺の背中にへばりついたまま、瞳がうっとりとした声で囁いた。
「鈴木さんの心拍数110……平常値。アドレナリンの分泌は極めて安定的。背中の広背筋の微細な収縮が、直接私の肌に伝わってきます……。こんなにも生々しく、貴方の生命活動を味わえるなんて」
「お前、なんか目的変わってないか?」
「変わっていません! これは『デート』です!」
耳元で、瞳が断言した。
「極寒の深層で、世界の終わりを告げる魔獣を前にして、貴方と一つの視覚を共有し、鼓動を重ね合わせる……。こんなにも刺激的で、ロマンチックで、最高に知的好奇心を満たしてくれるデートスポットが、世界のどこにあるというんですか!」
……理系女子の恋愛観は理解不能だ。
飛び交う爆炎と雷撃。鼓膜を破るような魔獣の咆哮。
この地獄の真ん中で、俺の背中の上にだけ、奇妙なピンク色のオーラが漂っている。
遠くからすずが「ひ、瞳さん!? 抜け駆けはずるいです!」と叫んでいるのが聞こえるが、今は気にしてはいられない。
『何をしている! 貴様ら、この絶対的な力を前にしてふざけているのか!』
巨獣の上で、『蛇の目』のリーダーが激怒して叫んだ。
彼が手を振ると、巨獣の身体から無数の棘がミサイルのように発射された。
雨あられと降り注ぐ死の棘。
「危ないです、鈴木さん!」
「心配すんな。……見えてる」
俺は瞳を背負ったまま、最小限の動きで棘の雨を躱した。
瞳のナビゲートにより、棘の軌道が完全に予測できている。右へ半歩、左へ一歩、肩を少し下げる。
まるで最初から振り付けが決まっているダンスのように、俺は死の雨をすり抜けて前進した。
「……美しいです。無駄なエネルギー消費率ゼロ。もっと……もっと貴方のデータを私にください……!」
背中で瞳が興奮に打ち震え、俺の首元に顔を擦り付けてくる。
くすぐったい。そして、彼女の心臓の音がドクドクと背中越しに伝わってくる。
だが、事態はそう甘くはなかった。
『小賢しい真似を……! ナビゲートなど追いつかぬほどの力で蹂躙してやる!』
リーダーが叫ぶと、巨獣がさらにその形態を変化させた。
背中が割れ、中から巨大な「砲塔」のような器官がいくつもせり出してくる。
「っ!? 鈴木さん、マズいです! 敵の魔力密度が跳ね上がりました! 演算が……追いつきません!」
背中で瞳が焦燥の声を上げた。
視界に浮かんでいた赤いガイドラインが、ノイズまみれになって明滅し始める。
「ジーク! すず! 下がれ!」
俺が叫ぶのとほぼ同時。
巨獣の砲塔から、漆黒の極太のレーザーが全方位に向けて乱れ撃たれた。
ズドォォォォォォォォンッ!!
光線が壁の魔力結晶を融解させ、空間そのものを削り取る。
S級たちが防戦に回るが、その圧倒的な質量と威力に押し込まれていく。
ポチの毛皮すらも焦がすほどの熱量。
「くそっ、これじゃ近づけねぇ……!」
俺は瞳を庇いながら、飛んでくる残骸をナイフで弾き落とした。
このままではジリ貧だ。
敵はまだ底を見せていない。
圧倒的。規格外。
『ハハハハハハッ! 見ろ! これが神の力だ! 貴様らなど、塵芥に等しい!』
狂気の笑い声が反響する中、巨獣の巨大な影が、俺たち全員を覆い隠そうとしていた。
だが、その暴れる触手の一本が、俺が足元に置いていた五右衛門へと迫っていることに、俺は気づいてしまった。
あの中には。
師匠が残した大事なノートと、俺が握った『おにぎり弁当』が入っているのに。
戦況は、絶望の淵へと傾きつつあった。




