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実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない 〜定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう〜  作者: U3
第3章:S級昇格・ライバル対決編

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第41話 緊急招集命令

 木曜日の早朝。午前5時。

 未曾有の『スタンピード』の予兆が観測されてから、一夜が明けた。


 東京の空は、鉛色の重たい雲に覆われていた。

 空気中に漂う魔素の濃度が濃くなり、肌にチリチリとした静電気のような刺激を感じる。

 街全体が、来るべき破滅を予感して息を潜めているような、不気味な静寂に包まれている。


 だが、ここアパート『ひまわり荘』203号室のキッチンだけは、別の種類の緊張感――極めて職人的で、芳醇な空気に支配されていた。


「……温度よし。バターの硬さ、よし」


 俺は、冷え切ったステンレスの作業台に向かい、真剣な眼差しで生地と対峙していた。

 世界がどうなろうと、俺の朝のルーティンは変わらない。

 いや、これから訪れるであろう修羅場を乗り切るためにも、今日の朝食は完璧でなければならない。


「今日は『究極のクロワッサン』を焼く」


 昨夜のうちに仕込んでおいたデニッシュ生地。

 フランス産の発酵バターを贅沢に使い、強力粉と準強力粉を独自の比率でブレンドした俺の自信作だ。

 冷蔵庫で一晩低温発酵させた生地は、赤ちゃんの肌のように滑らかで、指で押すとゆっくりと戻ってくる弾力を持っている。


 打ち粉を振る。

 麺棒を当てる。


 トン、トン、スーッ。


 力を入れすぎず、生地のガスを均一に抜きながら長方形に伸ばしていく。

 そして、シート状にした冷たいバターを中央に置く。

 ここからが勝負だ。

 生地でバターを包み込み、伸ばしては折り、伸ばしては折る。


 『三つ折り』を繰り返すことで、生地とバターが交互に重なる層を作るのだ。


「バターを溶かすな。生地と一体化させるな。……層を残せ」


 俺は呪文のように呟きながら、手早く作業を進める。

 室温が高いとバターが溶けて生地に染み込んでしまい、パンのような食感になってしまう。

 逆に冷やしすぎるとバターが割れて層が崩れる。

 そのギリギリの境界線を見極める。


 折り込み回数は3回。

 計算上、27層のバターと生地のレイヤーが生まれる。これが、焼いた時のあのサクサク感を生むのだ。


 生地を三角形に切り分ける。

 底辺を持って、クルクルと巻いていく。

 適度な緩みを持たせつつ、形を整える。美しい三日月型が並ぶ。


 これを天板に並べ、最終発酵へ。

 ふっくらと二倍の大きさに膨らんだところで、表面に卵液を塗る。


「行ってこい」


 予熱したオーブンへ投入。

 210度の高温で一気に焼き上げる。


 ……数分後。


 キッチンからリビング、そしてアパート全体へと、暴力的なまでに甘く、香ばしい香りが拡散した。

 焦げたバターの香りと、小麦の焼ける匂い。

 それは、どんな魔獣の誘惑スキルよりも強力な、本能を揺さぶる香りだった。


「……んんぅ……いい匂い……」


 リビングで雑魚寝していた美女たちが、ゾンビのように起き上がり始めた。

 寝癖のついた髪のまま、鼻をヒクヒクさせてキッチンに集まってくる。


「おはよう、悠作。……なにこれ、朝からテロ?」


 みのりが目を擦りながら文句を言うが、その目はオーブンに釘付けだ。


「師匠〜、お腹空いた〜。バターの匂いで目が覚めたし」


 ゆき子がヨガマットから這い出してくる。


「焼き上がったぞ」


 俺はオーブンを開けた。

 熱気と共に、黄金色の宝石たちが姿を現す。

 表面はパリパリに焼け、美しい層のラインが浮き出ている。

 網に乗せると、パチパチ……と小さな音がした。


 『パンが歌っている』。


 内部の水分が蒸発し、クラストが落ち着く時に発する、成功の証だ。


「飲み物はこれだ」


 俺は冷蔵庫から、キリッと冷えたボトルを取り出した。

 朝から酒か、というツッコミは受け付けない。

 これはフランス・アルザス地方の『ゲヴュルツトラミネール』。

 ライチやバラのような華やかな香りを持ち、スパイシーでコクのある白ワインだ。


「バターたっぷりのクロワッサンには、酸味よりも香りとコクのある白が合うんだ」


 グラスに注ぐ。

 黄金色の液体が、朝の光を受けて輝く。


「「「いただきます!!」」」


 全員が一斉に手を伸ばす。

 まだ熱いクロワッサンを指先で摘む。

 軽い。空気を含んで、羽のように軽い。


 ガブッ。


 サクッ……ハラハラハラッ!


 部屋中に響く、軽快で小気味よい破砕音。

 噛んだ瞬間、何十層にも重なった薄い生地が弾け飛び、中から濃厚なバターの香気が噴き出す。


「……んん〜っ!!」


 すずが頬を押さえて悶絶した。


「サクサクです! なのに中はしっとりモチモチ……! 噛むたびにバターがジュワッと染み出してきます!」


「ヤバい! 師匠、これ今までで一番かも! 軽すぎて無限に食える!」


 ゆき子が次々と口に放り込む。


 しずかも真剣な顔で断面を観察している。


「……見事な蜂の巣構造ね。気泡が均一に入っているわ。この空気が断熱材となって、口の中で熱と香りを爆発させるのね」


 相変わらず分析が物理的だが、気に入ったようだ。


 そして、白ワインを一口。

 フルーティーでスパイシーなワインが、口の中に残ったバターの油分を洗い流しつつ、香りをさらに増幅させる。


「はぁ……。最高」


 みのりがグラスを傾け、幸せそうな溜息をついた。


「外はスタンピードだなんだって大騒ぎだけど、ここだけ別世界ね。……もう、仕事行きたくない」


「行かなくていいなら俺も行きたくない」


 俺もクロワッサンを齧り、苦笑した。

 足元では、小型サイズのポチが、自分用のクロワッサンを前足で器用に押さえて食べている。

 サクサクと音を立てるたびに、尻尾がメトロノームのように揺れる。


 平和だ。

 嵐の前の静けさだとしても、この朝食の時間は誰にも邪魔させない。


 ――だが。


 世界は、俺たちの朝食が終わるのを待ってはくれなかった。


 ウゥゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!!


 突如、不快なサイレンの音が街中に響き渡った。

 エリアメールの着信音が、全員のスマホから一斉に鳴り響く。

 不協和音。


「……来たわね」


 みのりの顔から、緩みきった表情が一瞬で消えた。

 彼女はスマホを確認し、厳しい声で告げた。


「緊急警報発令。東京大迷宮にてスタンピードの発生を確認。……レベル5。災害級よ」


 同時に、テレビの画面が緊急ニュースに切り替わった。

 ヘリコプターからの映像。

 ダンジョンの入り口から、黒い煙のようなものが噴き出し、そこから無数の魔物が溢れ出してくる様子が映し出されている。


『繰り返します。探索者協会本部より、緊急招集命令です』


 アナウンサーの声が裏返っている。


『首都圏に在住するC級以上の全探索者は、直ちに指定の防衛ラインへ向かってください。これは演習ではありません。繰り返します、これは演習ではありません』


 部屋の空気が凍りついた。

 ジークが立ち上がり、ジャケットを羽織る。

 しずかがコンテナを背負う。

 すずとゆき子も、覚悟を決めた目つきに変わる。


「行きましょう。……私たちが止めなければ、街が飲み込まれます」

「師匠! 行くっしょ! ポチの背中に乗ればすぐだよ!」


 全員の視線が俺に集まる。

 S級探索者、鈴木悠作。

 この場の最強戦力。俺が動かなければ、防衛線は崩壊するだろう。


 だが。

 俺は最後のクロワッサンを口に放り込み、ワインを飲み干すと、ふぅと息を吐いて言った。


「……悪いが、俺はパスだ」


「はぁ!?」


 全員がひっくり返った。

 みのりが鬼の形相で詰め寄ってくる。


「あんた何言ってんの!? S級よ!? 義務よ!? 拒否権なんてないわよ!」

「いや、だって……」


 俺は足元を指差した。

 そこには、リードをくわえて期待に満ちた目で俺を見上げているポチがいた。


「ポチの散歩の時間なんだよ」


「はあああああああああ!?」


 絶叫が響く。

 俺は真顔で続けた。


「日課なんだ。これを欠かすとポチの機嫌が悪くなるし、運動不足は健康に悪い。それに、今日は『あっちの公園』まで行くって約束したんだ」

「今そんなこと言ってる場合!?」

「それに、まだ洗濯物も取り込んでないし、夕飯の仕込みも……」


「ええい、うるさい!!」


 みのりがキレた。

 彼女は俺の襟首を掴み、力任せに引きずり出した。


「散歩なら戦場でさせなさい! 魔物を追いかけ回せばいい運動になるでしょ! 洗濯物は五右衛門に入れなさい!」

「ちょ、おい、服が伸びる!」


 俺は抵抗を試みるが、ジークとしずかも加勢してくる。


「師匠! 往生際が悪いですぞ! 武人として戦場が呼んでいます!」

「悠作、諦めなさい。貴方の力が必要なの」


 両脇をS級二人に抱えられ、俺は宙に浮いた。

 ポチも「散歩! 散歩!」と嬉しそうについてくる。こいつ、戦場をドッグランだと思ってないか?


「ああもう! わかった、わかったよ!」


 俺は観念して叫んだ。


「行くよ! 行けばいいんだろ! その代わり、残業手当は弾んでもらうからな!」

「はいはい、特別報酬でも何でも申請してあげるから!」


 みのりが玄関ドアを蹴り開ける。

 外はサイレンと悲鳴が入り混じるカオスだ。

 だが、不思議と恐怖はなかった。

 俺の周りには、頼もしい仲間たちがいる。

 そして何より、腹には最高のクロワッサンが詰まっている。


「……出勤だ。定時までに片付けるぞ」


 俺は五右衛門を展開した。

 ポチが光に包まれ、巨大なフェンリルの姿へと変わる。

 俺たちはその背中に飛び乗り、黒煙が立ち上るダンジョンの方角へと飛び出した。


 世界を救うための、ただの「お仕事」が始まった。


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