第40話 嵐の前の静けさ
水曜日の朝。
昨夜の組織『蛇の目』襲撃事件と、それに続く一方的な蹂躙劇から一夜が明けた。
東京・練馬区の住宅街に建つ築40年の木造アパート、『ひまわり荘』203号室。
そこには、昨夜の喧騒が嘘のような、穏やかな朝の光が差し込んでいた。
「……平和だ」
俺は、ベランダで洗濯物を干しながら独りごちた。
眼下のアスファルトには、昨夜ポチやしずかが暴れ回った痕跡――ひび割れやクレーター――が残っているが、早朝のうちに茜が手配した土木魔法使いが応急処置を済ませたらしく、見た目は綺麗に舗装されている。
壊滅させた『蛇の目』のアジトに関しては、みのりが協会の権限を使って「老朽化した工場のガス漏れによる事故」として処理したらしい。仕事が早い。
俺は空になった洗濯カゴを持って部屋に戻った。
リビングでは、いつものメンバーが思い思いに過ごしている。
ポチは質量操作で小型サイズに戻り、日向ぼっこをしながら欠伸をしている。昨夜の巨大化戦闘でエネルギーを使ったせいか、まだ眠そうだ。時折ピクピクと動く耳が愛らしい。
ゆき子は鏡の前で新しいダンスのステップを確認している。B級ダンサーとしての本能か、昨夜の実戦で何か掴んだらしい。
しずかはバランスボールの上で片足立ちをしてプロテインを飲んでいる。S級ポーターとしての体幹トレーニングは、食事の次くらいに重要な日課だそうだ。
ジークは部屋の隅で正座し、精神統一をしている。邪魔にならないように気配を消しているのが逆に不気味だ。
「悠作、協会の定例報告終わらせておいたわよ。……ほんと、あんたの担当になってから書類仕事が倍増したわ」
こたつ机でノートPCを叩いていた伊藤みのりが、凝り固まった肩を回しながら言った。
目の下には薄っすらとクマがあるが、表情は晴れやかだ。
「悪いな。手間かけさせる」
「いいわよ。昨日のキムチとスイカパンチでチャラにしてあげる。……あれ、美味しかったし」
みのりはツンとした態度で言いながら、手元のマグカップに口をつけた。中身は昨日の残りのスイカパンチだ。気に入ったらしい。
「さて……。今日は特に予定もないな」
俺はキッチンに立った。
昨夜は刺激的な辛さのキムチを食べた。カプサイシンで代謝が上がり、体は軽いが、口の中はまだ微かな刺激を覚えている。
その反動か、今の俺の身体は、優しくて甘く、そして冷たいものを欲していた。
「……アイス、作るか」
俺の呟きに、座敷わらしのように部屋の隅でタブレットを見ていた高橋すずが反応した。
バネ仕掛けのように顔を上げる。
「アイスですか!? 私、大好きです!」
「おう。今日は市販のじゃなくて、一から作るぞ。……すず、手伝ってくれるか?」
「は、はい! 喜んで!」
すずが弾かれたように立ち上がり、エプロンを取り出した。
俺たちが作るのは、添加物を一切使わない、素材の味を極限まで引き出した濃厚な『ミルクアイスクリーム』だ。
調理開始。
まずはボウルに卵黄とグラニュー糖を入れる。
カシャカシャカシャ……。
俺は泡立て器をリズミカルに動かす。白っぽくなるまで、空気を含ませるようにすり混ぜる。これが口溶けの良さを決める重要な工程だ。
別の鍋で、牛乳と生クリームを温める。
バニラビーンズを贅沢に一本、さやを割いて種ごと投入する。
沸騰直前まで温め、香りを移す。
甘く、どこか懐かしいバニラの香りがキッチンに漂い始める。
「いい匂いです……。幸せな香りですね」
すずが鍋の中を覗き込み、うっとりとした顔をする。
「ここからが勝負だぞ」
温めたミルクを、卵黄のボウルに少しずつ加えて伸ばしていく。
そして、全てを鍋に戻し、弱火にかける。
『アングレーズソース』作りだ。
83度。卵が固まらず、かつ殺菌され、適度なとろみがつく温度帯をキープする。
木べらで絶えず底を混ぜる。気を抜くとスクランブルエッグになってしまう繊細な作業だ。
とろり、とした濃度がついたら火から下ろし、氷水に当てて急冷する。
「さて、ここからが本来なら機械の出番なんだが……」
俺はチラリとすずを見た。
彼女はA級筆頭、『氷剣の女帝』。氷魔法のスペシャリストだ。
昨日のマンモス捕獲でも見せた、あの精密な魔力制御。あれがあれば、機械よりも上質なアイスが作れるはずだ。
「すず。このボウルの周りを、マイナス10度で均一に冷却できるか? 急激に冷やすんじゃなく、俺が混ぜる速度に合わせて、ゆっくりと氷の結晶を作っていくイメージだ」
「……! マイナス10度で、均一に……。やってみます。魔力制御のトレーニングですね!」
すずが真剣な表情でボウルに手をかざす。
彼女の指先から、微細な冷気が放出される。
ボウルの周囲に、美しい氷の膜が形成されていく。
「すごいな。完璧な温度管理だ」
俺は泡立て器を動かし続ける。
液体だったソースが、すずの冷気によって徐々に凝固していくのが手応えでわかる。
空気を含ませながら、撹拌し、冷やす。
ガリガリとした氷の粒を作らず、滑らかなクリーム状に仕上げるためには、この「撹拌」と「冷却」のバランスが命だ。
「……固まってきました! 重くなってます!」
「よし、ラストスパートだ。空気を含ませろ!」
俺の手首のスナップと、すずの精密な冷却魔法がシンクロする。
カシャカシャカシャッ!!
金属音が小気味よく響く。
数分後。
そこには、純白の、ふんわりとした山が出来上がっていた。
スプーンですくうと、ツノが立つ。
市販のカチカチのアイスとは違う。出来たての、ソフトクリームのような滑らかさを持った極上のアイスクリーム。
「完成だ」
「わぁ……! キラキラしてます! 私の氷より綺麗かも……」
俺はガラスの器にアイスを丸く盛り付けた。
そして、今日の「主役」を取り出す。
「ペアリングはこれだ」
一升瓶。
ラベルには力強い墨文字で『純米大吟醸』と書かれている。
精米歩合35%。フルーティーな香りと、米の甘みが極限まで引き出された最高級の日本酒だ。
「アイスに……お酒ですか?」
すずが首を傾げる。
「ああ。『大人のアイス』だ。日本酒のアミノ酸と、ミルクの脂肪分は相性がいいんだよ」
俺はアイスの上に、とろりとした日本酒を回しかけた。
さらに、アクセントとしてピンク色の岩塩をほんの数粒、パラリと振る。
「「「いただきます!!」」」
匂いを嗅ぎつけた全員が集まり、スプーンを構える。
ポチも足元で「ワフッ!(俺のもあるよな?)」と待機している。
すずが、日本酒のかかったアイスを一口食べた。
「……んっ!!」
彼女の目が大きく見開かれる。
スプーンが止まる。
「美味しい……! 何ですかこれ!? アイスの濃厚なミルク感が、日本酒の芳醇な香りと溶け合って……まるで高級な和菓子のようです!」
冷たいアイスが口の中で溶ける瞬間、日本酒の華やかな吟醸香が鼻に抜ける。
アルコールの角はなく、米由来のふくよかな甘みがミルクのコクを深めている。
そして、時折舌に当たる岩塩のしょっぱさが、全体の甘みを引き締め、次の一口を誘う。
「マジ!? 酒とアイスって合うの!? ……うわ、ホントだ! ヤバい、これ無限にいける!」
ゆき子も興奮してスプーンを動かす。
口の周りにクリームをつけて子供のようにはしゃいでいるが、食べているのは度数の高い日本酒アイスだ。
ジークは目を閉じ、陶酔しきっている。
「……雪解け水のような清涼感と、母なる大地の恵み……。この調和は、まさに剣禅一如の境地……。師匠、この味、剣技に応用できませんか?」
「できるか。黙って食え」
みのりが呆れつつ、しっかりと自分の分を確保して食べている。
「ん〜、幸せ……。昼間っからこんな贅沢していいのかしら。……ま、昨日あれだけ働いたんだから、バチは当たらないわよね」
しずかも頷く。
「糖質制限中だけど、これは別腹ね。日本酒のアミノ酸は筋肉の修復にも役立つし、理にかなっているわ」
茜も扇子で口元を隠しながら、「このレシピ、うちの店のカフェメニューに加えさせていただいても?」と商魂逞しいことを言っている。
部屋中が、甘い幸福感に包まれていた。
ポチも、自分用のボウルに入ったアイスを、顔中クリームだらけにして夢中で舐めている。
平和だ。
これこそが、俺の求めていた日常だ。
S級になろうが、組織に狙われようが、こうして美味いものを作って食べていられれば、それでいい。
この時間がずっと続けばいいと、心から思った。
――そう思っていた。
ズズズズズズズズズ……。
突如、異変が起きた。
部屋全体が、いや、地面そのものが、低く、重苦しく振動し始めたのだ。
地震ではない。もっと深い、地底の底から響いてくるような「鳴動」。
窓ガラスがビリビリと共鳴する。
「……ッ!? なんだ?」
俺はスプーンを止め、立ち上がった。
ポチが食べるのをピタリとやめ、窓の外――ダンジョンのある方向を睨みつけて低い唸り声を上げている。
背中の毛が逆立ち、金色の瞳が細められている。
「師匠! これ、地震じゃなくない!? なんか気持ち悪い揺れなんだけど!」
ゆき子が不安そうに身をすくめる。
「……魔力震です!」
鋭い声が響いた。
瞳だ。
彼女はアイスを放り出し、自分の席に飛び戻ってPCを操作し始めた。
画面には、真っ赤なグラフが波打っている。警告音がけたたましく鳴り響く。
「観測史上最大規模の魔力励起反応……! 震源は東京大迷宮、最深部!」
「最深部だと……?」
俺たちの視線が集まる中、瞳は青ざめた顔でキーボードを叩き続けた。
表示されるデータは、俺には理解できない複雑な数値の羅列だが、それが異常事態を示していることだけは分かる。
「……あり得ません。地下70階層以深の魔力濃度が、通常の50倍……いえ、100倍以上に膨れ上がっています。ダンジョン全体が、まるで呼吸をするように脈動している……」
瞳が顔を上げ、震える声で告げた。
「『スタンピード』の予兆です。……それも、過去のいかなる記録にもない、災害級の規模です!」
スタンピード。
ダンジョンの魔素バランスが崩壊し、内部の魔物が溢れ出して地上へ侵攻してくる、最悪の災害。
通常は数年に一度、小規模なものが起こる程度だが、今回のは様子が違うらしい。
「……規模は?」
俺が短く問うと、瞳は絶望的な数値を読み上げた。
「推定個体数、数万から十数万。……S級モンスターを含む、深層の魔物たちが一斉に浮上を開始しています」
部屋の空気が凍りついた。
さっきまでの甘いアイスの余韻は消し飛び、冷たい緊張感が支配する。
「数万……だと?」
みのりが顔面蒼白になり、ノートPCを落としそうになる。
「そんなの、協会の全戦力を投入しても止められるかどうか……。東京が、終わるわよ……」
全員が沈黙する中、俺は窓の外を見た。
晴れ渡っていた空に、どこからともなく暗雲が立ち込め始めていた。
嵐が来る。
俺たちの平穏を、定時退社を、そしてこの食卓を脅かす、最大最強の嵐が。
「……ふざけるな」
俺は低く呟いた。
恐怖はない。あるのは、理不尽な災害に対する静かな怒りだけだ。
せっかくの手作りアイスが溶けてしまう。
ポチとの昼寝の時間が奪われる。
それが許せない。
「俺の日常を、これ以上邪魔させるか」
俺は残っていたアイスを一口で飲み込み、五右衛門を背負い直した。
まだ戦いは始まっていない。だが、予感は確信に変わっていた。
このスタンピードは、ただの自然現象ではない。
誰かの、あるいは何かの意思が働いている。
ポチの深層での変化も、この予兆だったのかもしれない。
俺たちは顔を見合わせた。
ジーク、すず、しずか、ゆき子、瞳、茜、そしてみのり。
言葉はなくとも、全員の意思は一つだった。
守る。
この場所を。この時間を。そして、今日の夕飯を。
決戦の時は、刻一刻と迫っていた。




